いよいよ2025年も9月に入りました。月のイメージとしては晩夏から秋ということですが、この後の予想でも猛暑日続出ということですので、もはやうんざりといった真夏日にまだまだ悩まされることになるのでしょう。桜が咲くころが春で紅葉の頃がわずかな秋、今や春と秋は無くなりつつあり、日本の四季折々という表現も失われかねない陽気の異変です。来年は更に・・・。
さて、タイトルは説明するまでもありませんが、トップの立場でありながら、その資質に疑問を持たれながらトップの職責に居直り、居座る3人の政治家のことです。国では石破総理、県では斉藤兵庫県知事、市では田久保伊東市長のお三方。いかがですか、こうした立場の方が醜い姿勢方針を見せ続けていることは、日本人としての魂、倫理観が下方修正されてしまったように思えてなりません。
先日、地方議員の成りて不足というタイトルで、全国市議会議長会が主催する大きな会議イベントが札幌で開催されました。理由と対策の2大区分で講演とパネルディスカッションが行われましたが、その内容には実のところ違和感を持って耳を傾ける結果となりました。
その理由は、国や県で至誠の持ちようが疑われるトップがメディアを賑わせている現実とギャップがあるからです。また、サスペンスドラマでも、政治及び政治家がストーリーの重要部分に出てくるものを多く見受けますが、そのどれもが政治家が悪のフィクサーとしてシナリオ化されているのはなぜか?
会議では、議員報酬が少ない、年金制度を復活すべきだ、女性を増やすべきだといった「べきだ論」に終始していましたが、その前に考えるべきことがあるというのが私の考えです。ましてや男性や女性だといった理論は、政治という世界であれなんであれ、それにふさわしい人であれば性別は問わないのです。男性に成り手がいないから女性よ出でよというのは思考角度が少し違うとおもえてならないのです。
自民党内では石破一派がオールドメディアの思考と組んで、選挙敗北の原因と責任を主義主張の異なるグループに処する動きが明確です。金の問題で言えば、自民党ではロッキード事件、リクルート事件、小沢一郎西松建設事件など疑獄事件とも評された事件がありましたし、今回の維新の議員による秘書給与流用事件も、民主党時代の辻元清美が同様の内容で有罪判決を受けたことがありました。変化の速い時代とともに忘れられてしまったかのようです。
ともあれ、現自民党で行われている反社会組織を思わせるような党内抗争を続ける政治の世界が議員の成り手登場を阻んでいる。それでもなりたい人は、既にそうしたタイプの政治家になる可能性を秘めている確率が高いのかもしれません。地方議会にもそうした傾向が無いとは言えないかもです。
国政ではまもなく前倒し総裁選が実現されるのでしょうか。今日1日は田久保市長の不信任案が可決されるようです。醜い居直り姿勢を示せば示すほど政治家に及ぼす不信感が全国に広がるだけです。ただし、斎藤知事のように不信任案が可決しても出直し知事選で兵庫県民が再選するという不思議さもあります。
「青年よ大志を抱け」というクラーク博士の言葉が虚しくならないことを願いたいものです。
そして、今日1日は幸手市議会初日です!