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No.3043 マスコミ報道を深く読み解くと

2018.10.10

 ようやく秋らしさを感じる陽気となり、赤とんぼの浮遊とともに木々も華やかに色ずく頃と相成り・・・いやいや、台風の影響で千葉や神奈川では木々の色ずきに変化があるという。潮風による塩害で銀杏などの街路樹が紅葉を魅せることなく枯れているらしい。鎌倉など観光地ではそれが顕著な状態だとか。自然災害とは人の生活だけではなく、季節の楽しみまで奪い、おそらく経済的にもそれなりの損失を生じることになるのだろう。

 さて、しばらく前の新聞記事だが、まずはお読みいただき何を感じられるだろうか。今や、告発リークはもとよりメディア自体によるフェイクニュースが溢れる時代。ことに週刊誌のスキャンダルもどきの編集方針に違和感を持つ方は少なくないと思われる。
ファイル 952-2.jpg 添付の記事は埼玉県内の、いわば地方版記事だが担当する記者により、もしくは取捨選択するキャップのセンスで当事者の取り扱いはいかようにでもなるという分かりやすい見本ではないかと思う。
 川越市議の発言はかなり具体的な形で掲載されている。この記事内容ではセクハラは疑う余地もない。議員の矜持や倫理観のかけらも感じない人間性が浮き彫りの記事内容である。問題はそれ以外にもいくつかの問題を投げかけている。
 ひとつは、市議らの懇親会で参加者がこの市議の隣に座るよう女性に進言したとする部分。市議の多くがセクハラ市議にヨイショしている図が見える。しかも立場を利用した女性蔑視かつパワハラでもある。議会内の上下関係も感じさせるが、実際、規模が大きい議会で大人数を要する会派ではそうした傾向が無くはない。議会とは一種独特の世界であり、その空気がよめないと長生きは出来ない。私はそういう部分にどうもなじめないというかスジの通らないことへの許容性が足りないと自覚している。
 次に、このセクハラ問題は女性側が市議会に厳重処分を求めたのであって法的措置に訴えてはいない。逆に言えば、議会の清新さと浄化を求めているように感じられる。法に訴えれば市職員として居ずらくなることへの思慮が働いたのだろう。かくいう議会とはそうしたものと思われても仕方がない面がある。

 県議と県職員の兼ね合いは、身障者水増しで大きな汚点・失態を見せた教育委員会に対して、いわば場外で厳しい追及とお咎めをしたものと推測している。教育部門の実態としては全国的に特に埼玉県が目立つところとなったのでやむを得ないとも言える。がしかし、この議員をよく知る小生としては、熱血漢がゆえの行き過ぎ、またはパフォーマンスが過ぎた結果と感じないではない。
 配慮を欠く発言と記事にはあるが、いったいどんな言葉を職員に発したのだろうか。思うに、より配慮すべきは職員の日常の生活への気配りであるべきなのだ。深夜まで7時間にわたる追及など絶対にあってはならない。彼は少々血気にはやる面があるタイプなのだが、これが記事になったこと自体に若干の驚きを感じる。職員もよほど腹に据えかねたのだろう。
 その後、この県議は知事に面談し詫びを入れたのだが、そもそも「無所属改革の会」は上田知事側に位置する会派で、この県議自体も知事支持派の議員であることから、心底から教育委員会の失態に我慢ならず強気な対応に出てしまったものと思う。議員は行政の怠慢や汚点に憤怒する場面があるにせよ、職員との接し方には大人の配慮が出来るようになってもらいたいものだ。

 正智深谷高教諭 部員に体罰・・・女子バレーボール部員が至近距離からボールを投げつけられた。「出ていけ」とか「何やってんだ」などの言葉を浴びせられた。さて、どうだろう。これが体罰と認定されて減給3ヵ月の処分になったという。小生の想い出の中には、これと同じことはいくらでもある。我が子のスポーツ少年団でもこれ以上の罵声を浴びている現場にいくらでも出くわした。今でもこれは変わりないと思うがどうなのだろうか? 
 ニチボー貝塚で鬼の大松と言われた大松監督は、どんな思いで天国からこの事件を見つめているだろうか。
 これでは、部活の監督やコーチなどやりたくなくなるのではないだろうか。
 この記事を読んで気になることは、部員以外の生徒から学校側に相談があったという点である。それに対する学校側の対応もおどおどしている風がうかがえる。つまり、学校運営者の立場にある者にとって不祥事は真っ平御免なのだ。したがって、訴えがあった時点で保護者父兄が騒ぐ前に穏便に早期解決を図りたいとの思いが働き、メディアの問いにも撲滅といった表現まで出てくる。記事にはしてもらいたくないところが記事になってしまったのだろう。
 私立高校の運動部はまず県のレベルでしのぎを削るものだ。ライバル校を意識して、追い越せ追い抜けで監督コーチは厳しく指導にあたるものだが、そこから出てくる前述の発言がダメだと言われたら、さて?
 ここまで書いてアーティスティックスイミングと呼称を変えたシンクロナイズドスイミングの井村監督を思い出した。言いたい放題で選手を指導している方だが、最近変わったのだろうか?
 いずれにしても、アマチュアスポーツ界のパワハラ・セクハラが問題になっているが、マスコミの報道の在り方が世間の過剰・過敏さに拍車をかけているように感じられてならない。政治に対するマスコミの対応も含めて、記事に踊らされないようにしたいものだ。

No.3040 記憶にないような強風が  

2018.10.01

 前夜23時頃から2時間近くかかった前号を投稿する10数分前から猛烈な風が吹き始めた。この風音はこれまで生きてきて記憶にないほどの威力である。無音の状態が数秒続くものの、この静かさが長く続いてくれ!と思たのもつかの間、木々をなぎ倒してもおかしくないような強風が家々にぶつかっている。明日は我が身を災害の対処精神に掲げる小生としては、対処のすべがない我が家の屋根や窓ガラスの無事を祈る感覚になっている。
 地域全体では大雨が心配されるが、昨日は、幸手市役所でも当番制のような形で職員が休日出勤をしていたという。今この時間はどういった対応を図っているのだろうか。
 市長はどのような状況にあるのだろうか? 基本的に役所だろうが自宅だろうが、行政職員は市長を頭として緊急事態に向けて対処の構えでなければならないはずだが・・・。
 すでに日付は10月に変わっている。今日は大安、大きな被害がないことを願う外の状況にいつのまにか眠気が覚め、今や寝るに寝れない。今テレビでは茨城に竜巻情報が・・・安全確認をのテロップが流れるがこの時間、この風ではどうすることも出来ないし、身の安全の確保と言われても、家の中にいるしかなく、外にいる人が心配ではある。関東各県の被害や停電現況とともに、風速が50メートルの可能性をアナウンサーが伝えている。いやー、この風の強さは心臓に悪い。

No.3025 女子高生コンクリート詰め殺人のその後

2018.08.29

 この号、少々重いテーマを取り上げた。まさにいろいろなご意見があろうかと思いつつ書き留めてみたが、本意は司法の在り方に対する問題提起とご理解いただきたい。
 事件の詳細まではともかく「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を覚えておいでかと思う。
 1988年11月三郷市で拉致、足立区で40日間に及ぶ監禁輪姦暴行、翌年1月に江東区でドラム缶にコンクリート詰めの状態で遺棄された悲惨な女子高校生の最後に涙した国民が多かった事件である。この事件は、4人の被告人すべてが15歳から18歳の少年だったが、筆舌に尽くし難い40日間に及ぶ残忍な鬼畜行為に少年法の在り方が問われ、また、週刊文春が実名報道をしたことへの是非ををめぐって世論がざわめいた事件でもあった。
 実は、あまり語られていないが、このうちの一人(少年Aとする)は出所後の2004年に監禁暴行事件の罪で懲役4年の実刑を受けている。彼は凄惨を極めた事件の判決による収監での出所後、反社会勢力に身を置いていた状況で先の事件を引き起こした。注目すべきは、この再犯時に自らが女子高生殺人事件の犯人だと名乗り被害者を脅していたことである。相手の恐怖心を煽る材料にかの事件を持ち出していたのである。反省の心など持ち合わせていないと感じさせられる話である。
 そして・・・忌まわしい事件から30年経った今月19日に2件目の再犯事件が発生した。川口市内の駐車場での揉め事がきっかけで相手の首を刺した元少年Bによる殺人未遂事件。すでに46歳になっている被疑者の30年間の私生活がどうだったかは分からないが、刃物を保持していた事実と、女子高校生被害者の遺族補償への対応に自宅を売却した両親の想い、さらには更生に努めた保護観察官の存在をないがしろにする行為等々深く考えさせられるものがある。なにより命の尊厳に対する精神構造が根底から変わっていないことを示している。

 近年、少年法の在り方や少年が犯した罪に対する報道の在り方、さらには死刑に対する賛否入り乱れた議論があるのは承知している。とくに死刑については世界的テーマでもあり、廃止、復活の歴史を繰り返すフィリピンでは、今年になってドゥテルテ大統領が復活法案を提出し、議会は賛成多数の現状にある。死刑存廃と少年法はもとより、安楽死など広く永遠のテーマとして問われるものは少なくないが、ことに、オウム事件の場合もそうであったように、凶悪犯罪における被害者遺族の想いに寄り添うことを大前提にするならば、死刑の存続と少年法のより厳格な法改正はあってしかるべきと考える。もちろん、少年にまで死刑を適用することに同意するものではない。
 いつ何時、我が身内が悲惨な被害者になるやもしれぬと考えると、犯人の年齢を問わず実際の事件の遺族の立場に思いを寄せるのは普通の人情である。殺傷事件や性犯罪は再犯の可能性が多いというのは定説に近い。犯罪の種類や中味内容といった度合いを再犯の可能性に結び付けた裁きがなされないと、30年経過しても次なる被害者が生まれることを今回の事件は立証している。

 イギリスで1993年に同国史上最も凶悪な少年犯罪と言われる事件が発生した。2歳の男子を連れ出し、鉄棒やレンガで殴り殺した上、事故死にみせかけようとして線路上に置いたというものである。二人の少年によるこの事件がイギリス社会を震撼させた最大の理由は、年齢がともに10歳だったということにある。
 無期懲役という裁定も、少年ということが考慮されて8年後に釈放となるが、釈放にあたり、改名させていたり、メディアによる報道の緘口令を求めるなど、彼らの過去を隠蔽することに神経をめぐらした法制の在り方が問われることとなった。なぜなら、二人とも薬物、万引き、ポルノといった犯罪に手を染めて再収監されている。つまり、残忍な初犯事件の悪夢の繰り返しが思い起こされることとなり、基本的に別名で人生をやり直すことは、当人への社会的制裁という観点において甘すぎる結果となったという見方がイギリスメディアに広がったのである。
 命の尊厳は被害者のみならず犯罪者にもあるのはわかるが、罪に対する代償はどこまで、どういった形で求められるものか・・・。たしかに難しい。
 このテーマを取り上げた小生の考えとしては、死刑賛成とか死刑推進という極論ではないが死刑の存続はやむを得ないと考えるののであり、少年法の改定を早急にすべきと思っている。
 若干、話は広がるが今の社会は、過敏過剰なほどに特定部分を見つめる方向にあり、それは息苦しいほどである。たとえば、ストーカー、パワハラ、セクハラ、電車内痴漢という犯罪の類いは、その実態を検証する前の段階で当事者の名が出るなどし、ある職業などでは抹殺に近い形で瞬時に手厳しい世論が待ち受ける。人として最も低俗な犯罪の種類ゆえ致し方ない面は認めるが、訴える側が無条件に真実であるとするならば、そこに問題はないのだろうか。人権に配慮することで人権を損なっていることはないのだろうか。私の知人に、混雑時の電車利用時には両手を胸にあてるか、つり革を掴むようにしているという人がいる。ある意味、怖くて面倒な世の中になったものだと言う。
 また別の部分では1億総幼稚化と言われるほど心の貧しさが問われる状況にあり、昔ながらの日本人気質の良さが失われつつある。

 
 すでに先月のことになるが、オウム真理教サリン事件にかかわる死刑執行があった。上川法相の判断に対しいろいろな角度からの評論があったが、宗教・思想という観点とは別に、事件の重大性と被害者遺族の心に寄り添う心情が普通であると理解された部分が多かったように思う。だからこそ、死刑廃止論が根強くあるのは重々承知しているものの、今回、この論議は短期間で終息しているように感じる。
 コンクリート事件から30年後に殺人未遂事件という重罪を再発したことに社会がどう応じるべきか悩みつつこの重いテーマを考察した。

No.3024 太陽を騙した行政

2018.08.24

 一昨日22日の晩、ドラマを観て久しぶりに涙が出た。「太陽を愛したひと」1964パラリンピック伝説医師の感動秘話というタイトルのドラマ。前宣伝をかなりしていたこともあって、ご覧になられた方も多かったことと思うが、実話に基づくこうした秘話は感動と共に説得力を持っているということを再認識した。障害者福祉にひたむきに尽くした人中村裕医師は数々の難局を乗り越えて東京五輪の前に7日間のパラリンピック開催を実現する。中でも、障害者自身の抵抗と家族の反対は心がくじけるほどだったと思うが、どんな場合にも、事を生む際には反対の壁に突き当たるものなんだなあと我ながら実感した。
「うちの子は見世物ではありません!」と、ビラ配りまでして訴える母親の言葉に、当時は押しつぶされそうになるくらいの切迫感を感じたはずだが中村医師は果敢に立ち向かった。かくいう小生も地域の先行きを考えて何かを!と思ってはみたものの、予想だにしないビラ配りなどの反対行動に遭遇した。結果、その気力を継続するにも期限が限られた状況では、事を控えざるを得ないことを今まさに体験している。しかし、その方向性には間違いはなかったと行動は別にして信念は持ち続けている。
 今でこそ、障害者スポーツは市民権を得て、企業広告にも彼らの頑張る姿が起用されるほどになっている。中村医師の「失ったものを数えるな!」という言葉は耳に残る印象深い名言であり、50代の若さで肝炎で亡くなった中村医師は、間違いなく社会を変えた偉人に違いない。
 信念とか尽くす行為とはこういう人のことを言うのだろう。

 ところで、残念かつ非常に腹立たしいことがある。この番組が載る22日新聞の最終面をめくり社会面に目を向けると、そこには地方行政による障害者雇用の水増しニュースなのだ。前日にも栃木県のことがあったが、この日は埼玉、長崎、佐賀、静岡、島根と松山市の5県1市が報道されていた。中でも、埼玉では教育委員会が教員として採用している492人に障害者手帳などの確認作業が必要だとされている。これでは国はもちろん、47都道府県1720余市町村の再調査をするべきだと思わざるを得ない。地方を指導する国でも文科省や経産省などの不正が相次ぐ状況だ。昨今、強く思うのだが日本全体に倫理観や道徳精神が希薄化していると感じるのは過ぎた考えだろうか。
 即刻、国会に特別委員会等を置き、こうした不正の防止法なども含めて検討議論をすべきであろう。まったく障害者を愚弄する話であり、福祉の実態に不正の疑惑がついて回る世の中では何をか言わんやである。それこそ太陽を騙した行政に他ならない。
 中村医師が草葉の陰で泣いている、いや憤怒していることだろう。

No.3017 山口武平氏死すに想う

2018.08.08

 №3015で、ドンにもいろいろありを取り上げたが、そのわずか数日後に、茨城政界のドンとして長きにわたり県政のみならず国政にも大きな影響を持っていた山口武平氏が亡くなった。享年95歳。
 1955年に茨城県議に梶山静六と同期当選し、途中先代中村喜四郎の死去にともなう参議院補欠選挙に出るも、無所属出馬の中村未亡人に敗戦、以来国政へ転出することなく県議一筋55年の政治人生を送った。2010年の引退まで14期という気の遠くなるような期間を県議として務めたが、これは広島、滋賀に前例があるだけの全国3番目のことである。しかし、90を過ぎ55年もの間を政治家として活動することには良し悪しは別にしてただただ感服するしかない。埼玉県自民党にも似たような状況があって、現在10期目となる最古参議員はまごうことなきドンであることを4年を共にした小生が感じている。県職員や自民党県議はもとより国会議員までもが、このドンの顔色をうかがうという現実を目の当たりにしている。小生は経験はないが、職員や県議が震え上がるほど怒鳴られている場面を何度か見ている。今、上田県政に何かと注文をつける自民党県議団の在り方はこのドンの影響無くして考えられない。全国のほとんどの都道府県議会は自民党が過半数を占め、そこには議会の舵取り役を強烈に発揮するドンが存在するものだ。なかでも、山口氏はひと際ドンとして光り輝いた地方政治家だったのではないだろうか。
 茨城には全国で最も選挙に強いと言われる2代目中村喜四郎現衆議院議員がいる。古くは、共に猿島郡を選挙区とした二人だが、山口氏は岩井市から坂東市への地区変遷の流れを逆境とせず地盤を強固にしていった。
 猿島郡と言えば、幸手市が合併を模索した五霞町を含むが、この時の合併は互いの住民投票において賛成が多かった場合、その後は両県議会の可決を必要とする県外合併だった。結局、この合併は幸手市の事情で発展を見ず、法定協議会も途中解散となったが、はたして、茨城県議会はどういった結論をもたらしただろうか。山口氏が中村氏の地盤を削る画策を考えれば自民党県議はこぞって賛成することになり、合併は可決承認となる。しかし、いくら確執があっても茨城領が減ることに賛成することへの反発も考えられる。そうした危険を侵してまで、中村氏に対抗心を燃やすことから派生する自らへの影響を良しとする人柄ではなかったと聞き及んでいる。腹のすわった方だとの評価もあった。2人の思惑は今となってはわからないが、五霞町民の意向を優先するかどうかが本来あるべきだとは思うものの、当時の私はそれほど生易しいとは思えなかった。県外合併の前に県内合併という思いが強かったこともある。
 中村氏が有罪判決を受けた後、山口氏はますます自民党県連での権勢をふるうこととなり、中村氏の当選のたびに自民党復帰が噂されたものの山口氏の力がそれを許さない状況が続いていると言われる。政治の世界の人心とは、かくも複雑な遺恨・怨念の呪縛が作用するものだと、小生も実感として感じる部分がある。まさに好き嫌いに関わる意地が存在する世界ということであるが、自分自身、それほどの大きさではないものの着実に人心に揉まれる状況を感じつつある。世情も人情も一筋縄ではいかないということを痛感することになるのだろうか。
 とにもかくにも、半世紀にわたり大きな存在感を示した山口武平氏に敬意を表すると同時に、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

No.3016 小悪魔来たりて笛を吹く

2018.08.05

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 明日6日我が家に激震?が走る。2人の孫がやって来るのだ。北陸新幹線の開通後2人だけで来る機会が増えた。それはそれで待ち遠しいもので家内など迎えの準備で大わらわとなる。しかし、お笑い芸人の話にもあるが、「孫と会うのはうれしいが、早く帰れと思うのも孫」・・・なかなか言い得て妙なものがある。個々には、会うたびに成長しているのだが、歳が近いこともあって事あるごとにいさかいが起こる。二人の言動の一つ一つに関心を持って見つめ、不公平感を持たれないように、依怙贔屓なく接するよう心掛けるが、本人たちはそれぞれ正当性を訴える。
 食事でも、私が「好き嫌いを無くすこと」「残さないこと」を口ずっぱく言うせいか、返事はその都度「ハイ!」なのだが実態がついてこない。馬耳東風もいいところだ。「ジジをなめるなー!」とばかりに対決ムードに血が騒ぐ。さーて、半年ぶりの二人はどう変わっているだろうか。いやいや、期待もほどほどにしておけと違う自分が笑みを浮かべながら忠告する。
 なんだかんだ言いながら、いつ来させるんだと親にせっつくジジババも勝手なものだ。その親も広島原爆の日の6日が誕生日で40歳になるという。その子どもの頃を孫に重ねて数日を共にすることにワクワクする感覚も悪くはないが、うるさいジジへの挑戦心をたぎらせて幸手に降臨する小悪魔たち。明日からの1週間、彼らがどんな笛を吹いてくれるものやら戦々恐々ながらも待ち遠しくて仕方がない。

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