記事一覧

No.3398 バス休止に想う・・・感謝

2021.04.02

 「枝久保さん、バスの休止はやむを得ないと思います。私も長い期間利用させてもらいましたがいつも有り難いと思っていました。今、我が家では娘がお世話になっていますが、本人も枝久保さんのブログを見せたら納得したようです。いろんな事情があったことと思いますが、香日向の人たちは感謝している人が多いと思います。直接お礼を言う機会はないでしょうけど、よろしければ枝久保さんからこんな思いを伝えていただけたら有難く、よろしくお願いいたします」
 今朝、このようなメールをいただきました。私の方が熱くなってしまいましたが、今、香日向では独断専行的に地域をリード、いやミスリードしそうな方がいるとの話が耳に入って来ますが、地域のみならず全方位的感覚で温かい目を注いでくれる住民がいることに心が和みます。ありがとうございました。

 
 中田観光さんに感謝の意を地域で示す方法は何かないだろうか?との想いが巡りますが、今の私にはさしたる方策は浮かびません。
 しかし、それがけっして考えすぎではないと思えることがあります。それは、委細確認も含めて数日前に社長と会った際、過去の香日向バスに関わる年次運行数値を提示されました。平成20年、22年を除き見事に年間収支マイナスという年が続いています。とくに昨年はコロナの影響で驚くような収支になっています。乗車人員が前年の令和元年の135,241人に対して、令和2年は97,077人ということです。平成20年にわずかな黒字を示しましたが、その年の乗車人員は174,294人でした。実は、この乗車人員が最も多かった年です。
 これでわかるのは中田観光さんは香日向のために企業論理を脇において頑張ってくれたということに尽きるのではないでしょうか。

No.3395 花咲く春は動く季節

2021.03.24

 今朝の登校パトロールは、小学校の卒業式ということで6年生だけが登校する日になっていた。私の立哨地点では6年生が一人だけ。それでも、この子との朝の出会いが6年間もあったわけだし、その最後の日まで見送ってあげたいと思い待っていた。
 いつもより遅めに現れた彼は学生服に身を包んでいた。なんとなく感無量の想いで「おめでとう!」と声をかけた。恥ずかしそうにあごでうなづき、「行ってきます」と小さな声で応答するのもいつもの彼の姿。マスクで表情は見えないが、おそらく学生服を着た瞬間から新鮮な心持ちで家を出たものと思う。
 努力して東京の中学校に入学することになった彼のことゆえ、マスク越しの顔は来月からの新たな出発に向かって希望と気合の表情に満ちていたことだろうと感じながらしばらく後姿を追っていた。

 午前中、幸手消防署の署長と他2人の署員さんが来訪された。署長さんが定年退職になるとのことでわざわざ挨拶に訪れてくれたのだ。まだ、後任は内示段階ということで、新しい署長や西救急ステーションの責任者が誰になるかは分からないが、厳しい職務体制の消防署員として定年まで働かれたのは、さぞや感無量のことだろうと思う。感謝と敬意及び家族の支えがあればこそとの想いで労をねぎらったが、車を見送りながら、二つの卒業者に出会った今日が素晴らしい晴天で良かったと思わず空を見上げた。

 記念日と言えば、唐突に私事で恐縮ですが昨23日は49回目の結婚記念日でした。
 1973年の3月23日が結婚当日でしたので、それを1回目とすると49回目ということになるわけです。これだけ高齢社会になっているので、金婚式も100歳長寿者も少なくはないはずと思うと、現時点ではさしたる感動はわきませんが来年はどうかといったところです。
 派手なことも外食もあまり好きではない家内が、私の好みの手料理をいくつか並べてくれたのがなによりでした。それで思うのは、外食産業の厳しい事情ではありますが、自粛生活でのエンゲル係数の低下は家計にとっては有難いようです。事実は、通常私の交際費にアルコールを含む食事代がかなり入っていると家内が感じているからかもしれません。確かに、この1年外飲みしなくなりましたし、家での酒量もかなり低下しています。皆様のご家庭ではいかがでしょうか。

 3月下旬に降る雨は、春雨、そして花散らし雨とも呼ぶそうです。卒業、定年、人事異動発令・・・慰労と送る季節。4月は入学、入社、新天地での新たなスタート・・・希望とともに迎える季節・・・春は嬉しくもあり、寂しくもあり。

No.3391 感染以外にも避けるべきものあり!

2021.03.18

 17日の時点で幸手市の感染者が111名となった。13日の前々号№3389では103名とご案内したので4日で8名の増加である。ちなみに111番目の感染者は20代男性無職で同居家族に感染者ありとなっている。いろいろな方に事情を確認すると、家族感染及びカラオケ感染が原因だという。確かに埼玉県でも同様のことを報道しているので頷けることではあるが、カラオケ経営者にしてみれば尋常なことではない。死活問題ともいえる状況だ。小生思うに、もはや緊急事態宣言の効果はないのかもしれない。
 中国では感染すると、まずはその家の封鎖、つまり扉に板を釘付けして外出を禁じ、万が一は逮捕となる。食料は定期的に運び、その地域の感染状況を徹底的に洗い出し、地域封鎖をする場合もある。その際は軍隊が道路に出て見張るという徹底ぶり。これも一党独裁ゆえに大衆は従うのみである。
 中国は人権問題が常に取沙汰される国ではあるが、まさに感染防止対策の究極は人を人とみなさない国家的手法がとられているようで、こうした暗部が報道されることはほとんどない。
 これを見習う国は北朝鮮以外にあるとは思えないが、自由な言動が許される国で感染対策が行き届かないというのはなんとも皮肉なことである。なおかつ、そうした自由と人権を謳う国での最近の風潮で不思議なことは、人権や平等を建前にして言論の自由に縛りをかける動きがあることだ。何が何だかわからない時代変化の様相を感覚的に捉えているのだが、読者の皆さんはいかがお感じでしょうか。普通に生活しにくい世の中になりつつあると、私の触覚は微妙に感じている。
 さて、今日18日は消防議会の定例会があり、さきほど議案書に目を通したところだが、五輪の聖火リレーに関わる感染対策予算が県の支出金を原資に予定されている。五輪の開催についての世論はどうなっているのだろうか。アスリートファーストはわかるが、世界がコロナ禍にある実情にあって、戦い勝利することにスポーツの情熱と汗の結果としての価値が見いだせるかどうかは疑問だ。
 明日19日は幸手市議会の最終日。迷走した教育長人事が採決でどうなるか。それから、後半の2年に向けて新たに議長などを変える互選人事が15人によって行われる場面もあるやもしれぬ。それについては、すでになにやら水面下の動きもある様子で、まったく悩ましい限りである。結果はどうなることやらだが、私は自ら蚊帳の外を標榜しているので議会人事には関心ない。ただ、世間的に、また市民感情として疑問を持たれない人事が望ましいのは言うまでもない。

 

No.3386 小さな春、大きな春

2021.03.11

 朝晩の気温は身体の端々に冷たさを感じさせるが、至るところで春の兆しは顔をのぞかせている。我が家の小庭にも写真のような色合いで春が到来している。
ファイル 1305-1.jpg◆ニオイスイセン・・・農村部の知人からいただいたものだが、しっかり球根が根付いたようで年々株数を増している。背丈は長いもので15㎝程度だから権現堂堤のスイセンとは見た目が全く異なる。かぐわしい香りがするが、腰をかがめる辛さもあって花より目で楽しんでいる(笑)
◆ヒマラヤ雪の下・・・これもかれこれ10年以上前のいただき物だが、色と花弁の集合体の鮮やかさは庭の中心に位置して毎年和ませてくれる。茎が横に広がる低花で成長度はかなりのものがあり、時折剪定を要するがとても強い植物の感がある。葉も独特で色と大きさは他の花には無い個性だと思う。
 単純に感じるままを・・・個々に好き嫌いはあってもこれが花を楽しむ秘訣だと思いますがいかがでしょうか。

 さて、我が家の小さな春を紹介しましたが、大きな春とはいったい・・・。
私自身の独創的な想いだが、中国や先祖帰りしてしまったロシアに常々感じることとして、この両大国に民主化という大きな春が訪れることはもうないのだろうか。
 1948年(第2次大戦の3年後)にスターリン指導下でチェコスロバキア社会主義共和国となったチェコは、言論弾圧などにより抑圧された国情に大衆の不満は鬱積していた。1968年春に書記長となったドプチェクは、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が高まったことにより、検閲制度の廃止や人の顔を持つ国家を標榜し、思想の自由を唱えるなど民主化に尽力した。結果、新たに政党が生まれるといった様相を示すこととなった。そして、自由化を求める市民運動が学生を中心に勃発し、街は自由主義国の姿を追い求める風潮が高まったのである。これが「プラハの春」と言われるものである。
 当時の共産主義や社会主義の本質が、いかに鉄の仮面を被った心を持たないものであったかということではないだろうか。
 ところが、これに怒ったソ連のブレジネフがNATOに対抗する存在のワルシャワ条約機構下にあった5か国連合の軍を出動させたのだ。プラハ市内のメインストリートの石畳を戦車が行き交うシーンは18歳だった私も鮮明に記憶している。この民衆の命を奪うことをいとわない鎮圧行為は、中国の文化大革命や天安門事件にも共通するものがある。
 プラハの春は、1966年に始まった文化大革命の凄惨な殺戮が行われていたのと時期を同じくする。文革は毛沢東による国家再建を建前にした権力闘争であり、劉少奇にとって代わっていた最高権力を奪回するためにすべてを巻き込んだ国内戦争であったと解釈している。当初は命令によって地方都市のあちこちで行われていたというカニバリズム(人が人を食すという人間の共食い)という蛮行が、民衆同士による互いの憎悪感によって行われるという事態にまでなった。紅衛兵同士間にも同様の行為があったというから想像を絶するものがある。この史上最悪の残虐な国情は、江青ら4人組が失脚する10年後まで続いたのである。鉄の仮面どころか狂気の鬼畜そのものだ。
 驚くことに詳細を調べると、ブレジネフによるチェコ事件の際、毛沢東中国は物質的精神的に加担していたというのである。
 プラハの春は、その後の東欧圏の民主化への先駆けと評価されてもいるが、ペレストロイカや東西ドイツ統一、ルーマニア独裁政権の崩壊といった政変劇が、歴史上大きな変動期であったとあらためて理解できる。

 天安門事件は今の中国の姿を見るにつけ、悔やんでも悔やみ切れない事件である。30年以上経過してはいるが、その30年で中国が安い労働力を原点に大きな経済成長を成し遂げ、その結果として世界制覇の野望を持つ国になった。日本にも言えることだが、世界各国が中国を利用した結果ともいえるのだろう。また、ロシアも経済的には中国の比ではないが、独裁検閲主義に戻りつつあるのは間違いない。この両国は国内の検閲体制を法で国外にまで適用させようとするしたたかさを隠さない。民主化とはなんぞやを考えさせられる昨今の日本でもあるが、この両大国にもはや大きな春は訪れないのだろうか。
 とすれば、考えれば考えるほど媚中議員が幅をきかせる日本の国政は心もとない。

No.3379 じわじわと変わる社会

2021.02.19

 アメリカ大統領選は世界に影響があることとして単なる海外の話題としては捉えられない。しかし、アメリカ国内でのことだけで見れば、確実にアメリカ社会は変わりつつある。それもまた諸外国に無関係ではない。
 何が変わったのか、またこれからどう変わっていくのかは個々の推測の範囲であり、誰も知る由もない。
 国際関係で言えば、中国の世界制覇の野望に向けた動向からは目を離せない。それは、今身近なワクチンをめぐる喧噪な世界情勢からは、発生の大元と(私的には限定して間違いないと考えている)でありながら、中国共産党がみせるワクチン外交は悪事を美談にすげかえるごごとくの国家戦略に変貌している。
 日本では、森前会長辞任へのマスコミや一部芸能界・アスリートの異常な昂ぶりが、コロナ禍の重要な審議を脇に置く野党の実態に拍車をかけた。IOCの見解が変化したのも財政的裏付けもあり、海外発信のワードや文体が問題を感じるような内容であったとされる。
 森発言を擁護するつもりはない。政治家時代から失言の多い人だったが、それが現世を理解していない原因なのだろう。憲法は思想信教の自由を謳っているが言葉まで保証されていない。それが時代と共に強く変わりつつある事実だ。ヘイト騒動がまさにそれであろう。言論の自由も変わりつつある。そして、それがどれほどの騒動になるかという今のご時世に森さんが適さない状況にあってついつい口が緩んだ結果の発言が、人間否定、社会的抹殺論まで出ることとなってしまった。しかし、石川県のご家族、お孫さんまでがマスコミのパパラッチポッシュに晒されているのは異常と言うしかない。そのメディアの中には、女性のヌード写真を販売の糧にしてきた週刊誌などがあるのだが、これに女性蔑視の声が上がらないのはなぜなのか? 

 香港人権弾圧も、尖閣領海侵入も、外務省は静観し、政府も言葉だけでほぼ沈黙に近いと言ってもよいほど弱腰である。更に言えば、あれだけ女性蔑視とまくしたてるマスコミも野党も、とくに立民や共産の女性議員たちがホワイトブレザーを着用してシュプレヒコールをあげる姿を見るにつけ、なぜウィグル弾圧に声すら上げないのかと不思議でならない。まさに、政治で問題にし、世界の世論を高めていくことではないのか。日本はその先頭に立ってもよい立場にあるはずだ。それを押しとどめる何かがあるのは間違いないが、唯一の被爆国として核廃絶の先頭に立てと声を上げるなら、世界を巻き込む、より身近なジェンダー論の中で、女性を粗末に扱う国家に対して日本の女性が抗議の声を上げてもよいのではないだろうか。いや、上げるべきだと思う!
 とくに今、ウィグルで行われている女性に対する強制避妊手術はすでに10万人に及んでいるという。新疆ウィグル自治区の人口は約1千万人と言われるが、中国は、20年から30年先のウィグル民族壊滅を意図しているとも言われている。手術に対する国際批判をかわす目的で、最近では避妊具の装着を強要しているともいわれる。
 こういった中国の民族弾圧には声を上げず、ジェンダーイコールを叫ぶマスコミ・野党群には何か別の目的があるようしにか思えない。しかし、じわじわとその効果が表れているから、叩く時には徹底して叩くという、その筋の手法が際立ち始めていると思う・・・いわゆる昨今の社会変化だ。

 400人近いボランティア辞退があったというが、全体で8万人いることはあまり報じられないし、あっという間の反応に驚いた。都庁に2000件近い電話があったというが、誰がするのだろうか、組織的なものがあるのかもしれないと正直感じた次第。ピュア、ホワイト、フラワーといった言葉で起こされる運動のたびに、あっという間に署名が集まり報道の対象となるが、不思議なことに常に15万人から20万人なのだ。いわゆるこうしたたびに動員される基礎票があるのではないかとの推測もあるが、当たらずとも遠からじであろう。ピュアとかホワイトのイメージとは少々異なるイメージ、つまり、相手を叩く感情的なものは普通ではない。こういうと、これも偏見なのだろうか。何も言えなくなる自由、民主、言論社会でこうした方々にとって差別と称して差別をしていることにはならないのだろうか。エキセントリックな感性は、立憲民主党の蓮舫さんに近いものを感じ、空恐ろしい社会変化が進んでいるようだ。
 問題は、こうした動きにマスメディアがこぞって反応することだ。
 私は、こうした社会変化には感情を流されることなく、確固たる信念を揺るぐことなく自らの五感を大切にしている。もはや、残された人生はそう多くは無い。ましてや社会貢献できる年月はそれより更に短い。
 若い時から英米ミュージックに親しんできたが、シカゴというロックバンドの曲に「Does Anybody Really know What Time it is?]という曲がある。
邦訳は「いったい現実を把握しているのは誰だろうか?」
常に、現実を、そしてそれが要因となって移り変わる未来を見つめつつ、自分に素直でいるためには社会変化に流されないことが大切なことだと思う。
 古いかもしれないが、それでいいと思う近頃である!

No.3374 子どもの溌剌さに救われる

2021.02.03

アイコン

 今の時間(12:25)ガラス越しに浴びる陽射しが心地良い。庭に出ると、しばし遠ざかっていたさえずりが影と共に飛び交う。さざんかの花に留まったのはメジロ。ウォーキングで行く近隣の公園ではカワセミやジョウビタキ、ヤマガラといった鳥たちに出会う。決まった場所で見ることが出来るので彼らとの逢瀬を目的にちょくちょく出向き、シャッターチャンスを狙うのだが、当然のことながらカメラ目線になってはくれない。そうは問屋が卸さないともてあそばれているようだがそれも楽しからずやである。
 小鳥たちや水鳥との出会いはワクワクものだ。2月に入ったので、渡良瀬遊水地にはひょっとするとミコアイサが羽を休めに来る頃だ。

 忍耐の続く緊急事態下、今朝は思わぬ喜びにひたることが出来た。私立中学の受験に集中するといって年が変わると同時に登校班に姿を見せなくなっていた6年生が久しぶりに・・・。理由は聞いていたこともあって「おっ、久しぶりだね。もう終わったの? どしたー?」と声をかけるやいなや、「受かりましたー!」これほどはっきりとした口調で返してきたのは記憶がないくらいだった。「どこ受かったの?」
「〇〇です」「そりゃ良かった。頑張った結果だね。おめでとう! 板橋だったけ。しっかり通わないとね」「枝久保さん、駅は新大久保ですよ」
「・・・・・」
 信号を渡ってからの足取りは木々の間を行き交う小鳥のように軽く感じた。
子どもは正直だ。

 その後、別の班が。一番後ろを歩く子どもがいつも大きな声で「おはようございます!」と挨拶してくれるのだが、その子に「〇〇さー、おじさんはあんたがそうやって毎朝元気な声を出してくれるので嬉しくて元気貰ってるんだよ」
 その後の言葉でこちらの気持ちが更に弾む。「そうなんだ。だったら僕も嬉しいよー」だって! 大人の気持ちを察して、こんな言葉を発してくれるとは・・・寒さも吹き飛ぶ思いでしばらく見送っていた。
 コロナで休校になってしまった学校もあるが、子どもたちのことを思うとなんともやるせない。そもそもホームステイが最も似つかわしくないのは子どもなんですからね。春はもうそこまで近づいている。鳥たちのように思い切り羽を伸ばしてもらいたいものだ。そういえば、昨日は5時になっても我が家に最も近い公園で子どもたちのにぎわう声が聞こえていた。地域はこうでなくては!

ページ移動