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No.3387 消えない衝撃=3.11

2021.03.11

 今朝ブログのテーマは春。国内で最も春到来を待ち詫びながら日々の暮らしをを送っているのは3.11の被災者の皆さんだろう。今年で発生後10年となるが、被災者にとって節目とか区切りという感覚にはなれない10年であり、復興へのただの通過点というのが本音だと思う。毎年春は来るものの心爛漫の春にはまだまだ時が必要である。見た目にはかなりの変化を感じるが、実態は追いついていない。例えば、海岸には最新式の防潮堤が出来ているし、自治体のほとんどは生活用の土地を高台に造成している。ところが、入居者が100%うまっているところがないという。理由は様々で、資金不足や利便性に不安を持つ場合や入居済みの商店の経営状態が芳しくないといったことが言われているそうだ。陸前高田市では、契約者は3割に満たないという。

 今日、テレビではどこも3.11関連を放映していた。しばし、目がテンになるような映像に見入ってしまったが、見たことのない映像に震えるほどの恐怖感を感じた。押し寄せる海水との競争のような場面は、創られたものではないだけについつい「早く逃げないと! 急いでー!」と声まで出てしまうほどである。10年経ってもこれほど新しい画像との出会いがあることに驚くばかりである。
 死者及び行方不明者は22,200名。生を得た被災者の皆さんが心に負った傷は癒えることは無く、命をつなぐことが精一杯の10年だったと考えると、これからの10年、長いようで短いことだろうが、どこまで真の復興と高度な防災対策を実現させることが出来るだろうか。そこに至らないと、区切りと言う言葉の違和感をぬぐえないだろうし、本当の春を感じることが出来ないのではないかと思う。そして、福島の場合は事情が他の被災地とは違う。戻ることをあきらめた方が多く、埼玉県にはそうした被災者の方々が県内各地にいらっしゃる。
 ところで、あの3.11の2:46 皆さんはどこで何をしていたでしょうか。皆、驚いて咄嗟の行動をしたはずなので、記憶に留まっている方が多いのではないだろうか。
 私は、急な県議選出馬話があった3週間後のことだったが、選挙用チラシの打ち合わせをしている最中のことであった。すくんでしまうような揺れに声を上げてテーブルの下に潜り込んだ。5分くらいは四つん這い状態だっただろうか。いやもっと長かったかもしれない。時間経過より情景への記憶が薄れずにいる。そして、しばらくしてその場にいる全員でテレビに流れる映像にこの世のものとは思えない衝撃を受けながら見入っていた。この衝撃に近いものとしては更に10年前の2001年、ニューヨークで発生した9.11テロにより旅客機衝突という信じられない出来事で崩れ行く世界貿易センタービルを見つめ続けて以来であった。
 本来、春とは・・・人の心が爛漫に満たされ、踊るような心もちの日常を感じさせてくれるものだ。被災者の皆さんにこの真実の春が少しでも早く訪れますように!

No.3386 小さな春、大きな春

2021.03.11

 朝晩の気温は身体の端々に冷たさを感じさせるが、至るところで春の兆しは顔をのぞかせている。我が家の小庭にも写真のような色合いで春が到来している。
ファイル 1305-1.jpg◆ニオイスイセン・・・農村部の知人からいただいたものだが、しっかり球根が根付いたようで年々株数を増している。背丈は長いもので15㎝程度だから権現堂堤のスイセンとは見た目が全く異なる。かぐわしい香りがするが、腰をかがめる辛さもあって花より目で楽しんでいる(笑)
◆ヒマラヤ雪の下・・・これもかれこれ10年以上前のいただき物だが、色と花弁の集合体の鮮やかさは庭の中心に位置して毎年和ませてくれる。茎が横に広がる低花で成長度はかなりのものがあり、時折剪定を要するがとても強い植物の感がある。葉も独特で色と大きさは他の花には無い個性だと思う。
 単純に感じるままを・・・個々に好き嫌いはあってもこれが花を楽しむ秘訣だと思いますがいかがでしょうか。

 さて、我が家の小さな春を紹介しましたが、大きな春とはいったい・・・。
私自身の独創的な想いだが、中国や先祖帰りしてしまったロシアに常々感じることとして、この両大国に民主化という大きな春が訪れることはもうないのだろうか。
 1948年(第2次大戦の3年後)にスターリン指導下でチェコスロバキア社会主義共和国となったチェコは、言論弾圧などにより抑圧された国情に大衆の不満は鬱積していた。1968年春に書記長となったドプチェクは、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が高まったことにより、検閲制度の廃止や人の顔を持つ国家を標榜し、思想の自由を唱えるなど民主化に尽力した。結果、新たに政党が生まれるといった様相を示すこととなった。そして、自由化を求める市民運動が学生を中心に勃発し、街は自由主義国の姿を追い求める風潮が高まったのである。これが「プラハの春」と言われるものである。
 当時の共産主義や社会主義の本質が、いかに鉄の仮面を被った心を持たないものであったかということではないだろうか。
 ところが、これに怒ったソ連のブレジネフがNATOに対抗する存在のワルシャワ条約機構下にあった5か国連合の軍を出動させたのだ。プラハ市内のメインストリートの石畳を戦車が行き交うシーンは18歳だった私も鮮明に記憶している。この民衆の命を奪うことをいとわない鎮圧行為は、中国の文化大革命や天安門事件にも共通するものがある。
 プラハの春は、1966年に始まった文化大革命の凄惨な殺戮が行われていたのと時期を同じくする。文革は毛沢東による国家再建を建前にした権力闘争であり、劉少奇にとって代わっていた最高権力を奪回するためにすべてを巻き込んだ国内戦争であったと解釈している。当初は命令によって地方都市のあちこちで行われていたというカニバリズム(人が人を食すという人間の共食い)という蛮行が、民衆同士による互いの憎悪感によって行われるという事態にまでなった。紅衛兵同士間にも同様の行為があったというから想像を絶するものがある。この史上最悪の残虐な国情は、江青ら4人組が失脚する10年後まで続いたのである。鉄の仮面どころか狂気の鬼畜そのものだ。
 驚くことに詳細を調べると、ブレジネフによるチェコ事件の際、毛沢東中国は物質的精神的に加担していたというのである。
 プラハの春は、その後の東欧圏の民主化への先駆けと評価されてもいるが、ペレストロイカや東西ドイツ統一、ルーマニア独裁政権の崩壊といった政変劇が、歴史上大きな変動期であったとあらためて理解できる。

 天安門事件は今の中国の姿を見るにつけ、悔やんでも悔やみ切れない事件である。30年以上経過してはいるが、その30年で中国が安い労働力を原点に大きな経済成長を成し遂げ、その結果として世界制覇の野望を持つ国になった。日本にも言えることだが、世界各国が中国を利用した結果ともいえるのだろう。また、ロシアも経済的には中国の比ではないが、独裁検閲主義に戻りつつあるのは間違いない。この両国は国内の検閲体制を法で国外にまで適用させようとするしたたかさを隠さない。民主化とはなんぞやを考えさせられる昨今の日本でもあるが、この両大国にもはや大きな春は訪れないのだろうか。
 とすれば、考えれば考えるほど媚中議員が幅をきかせる日本の国政は心もとない。