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No.3032 大坂選手の快挙を素直に喜ぼう!

2018.09.12

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 大坂なおみ選手の全米オープン優勝は、日本国民のみならず世界に広く、そしてテニスに親しみのない人たちにも大きな感動を与えた・・・はずと思っていた。小生も率直に喜びを前号ブログに書いた。その際、セリーナの驕りに満ちた言動や表彰式での慇懃無礼な司会者や観戦者の対応は、あえて書くことをやめた。結果だけで十分じゃないかと思ったからである。
 しかし、なおみフィーバーの余韻は人種差別や性差別の社会問題にまで波及することとなってしまった。そこで、少々の怒りを込めてナオミフィーバーの続編を書き足してみた。

 
 原因はいろいろあろうが、もとよりセリーナの言動が大きな禍となっていると小生は感じている。過去に何度となくグランドスラムに勝利し、トップアスリートの称号を手にしているセリーナであるが、それにふさわしい人間性が備わっていないことを感じさせる試合だった。大坂選手の成長に驚きつつも、こんなはずではなかったという思いが焦りとなって試合中に暴挙を生んでしまった。自身のGS制覇回数の記録がかかっていたこともあるだろうが、要するに我慢が足りなかったのは驕りから来ているという見方が適切ではないだろうか。その心中には、大坂選手が格下であり決勝戦まで上がってきたのはフロッグだと決めつけ、産後復調なった自分が負けるはずがないというプライドもあったかもしれない。
 「泥棒」という審判への言葉も、これ自体が神聖な決勝戦の場での、真正な審判に対する名誉棄損に値する言葉である。コートは、グランドや土俵と同じく当該競技にとって神聖な場所であり、入退場に際し一礼をするリスペクトすべき場所なのだ。また、よくよく考えてみれば大坂選手に対する審判を通じた冒瀆ともとれる発言である。
 大谷選手の活躍で大リーグ観戦をする人が多いと思うが、メジャーでは審判の判定に対する抗議には即座の退場勧告が待っている。よほど感情が高ぶらない限り審判にくってかかる光景は見られなくなった。
 表彰式でブーイングが起こると、セリーナは勝者である大坂選手を称え、ブーイングはやめようとマイク発言。これを美談のように語るキャスターがいるが、そもそもこういった発言をしなければならない原因はセリーナ自身にあったのであり、大坂選手の優勝を称える表彰イベントは、その意義を半減されてしまった。勝利した選手が「(皆さんの期待に反し)こんな終わり方になって残念です」と発言して涙するほど追い込んだ会場の雰囲気そのものがナショナリズム的判官びいきに満たされていたのではないかと思う。ブーイングを諫めるためにはセリーナが語るしかなかった場面でセリーナはそれを理解したのだろうが、それは自己の暴挙を反省してのものだったかどうか・・・試合後に、セリーナは男子戦にはない女性差別があったと発言したというが、審判を泥棒呼ばわりするセリーナに差別うんぬんを指摘する資格があるだろうか。このセリーナの主張にはジョコビッチもデルポトロも異論を唱えているが、過去の大選手であるマッケンローが賛同の意を示した。しかし、マッケンロー自身が試合中にちょくちょく感情的暴言を審判に浴びせる問題児で、悪童というニックネームががつく選手であったのをテニスファンであれば記憶にあることではないだろうか。
 セリーナは「謝りなさい!」とも審判に言ったようだが、そこにも驕りを感じるし、なによりセリーナ自身が大坂選手に謝るべきではなかったか。
 その後、セリーナは「勝つべき価値があった」「大坂選手から学べるものは多い」と評し、この言葉で小生も納得はしたが、出来れば表彰式で発して欲しい言葉だった。
 「人間、どれだけ苦しみに耐えることができるかによって、はじめてその人の値打ちがわかるのだ」という山本有三(米百俵)の言葉を噛みしめるならば、大坂選手はたびたび中断する試合展開やセリーナの怒りを見せられる苦しい状況を耐えて耐えて我慢して大願成就を果たしたのであり、逆にセリーナは忍耐よりも感情を優先した自らのコントロール不足により一敗地にまみれた。
 

 さて、大坂選手に対する反応では別の観点での問題も感じる。SNSで伝わる内容に、大坂選手は日本人とは思えないという意味の書き込みがある。やれ二重国籍だ、日本に住んでいない、日本語が片言だとか、他に感覚的なものも含めて日本人初の快挙を素直に喜ばない人たちがいる。すでに時はグローバル化が進み、それは今後更に加速するであろう。そんな状況にあって時代遅れの、まさに民族差別的物言いにどんな意味があるのだろうか。スポーツの世界で通用する話でもない。
 世の中には、目的に対する理解度を示すことなく反論のための反論を、しかも重箱の隅を突くかのように唱える輩も少なくない。いわゆるマッチポンプ的思考とでも言おうか。ところが、結果に対しても率直に認めることが出来ず、勝利者批判にまで及んでしまう人がいる。世の事象にはいろいろあるが、少なくともスポーツはそういうものであってはならないと確信している。
 断っておきますが、日本の高校選抜チームが出場したU18野球大会の決勝戦で韓国が劇的優勝を果たした。ところが、選手たちがマウンドに駆け寄りペットボトルで水かけをした後、そのマウンドには空のボトルが散らばったままだった。これは結果を称える以上にアマチュア高校生という点からも徹底注意すべき事象であろうと思う。それこそ、グランドという神聖な場を汚すなかれ!なのだ。そもそも水かけ自体が許されることではない。甲子園での優勝場面でそのような光景は考えられないし考えたくもない。マナー遵守に加えて勝利に対する謙虚な姿勢が望まれると思うのだが厳しすぎるだろうか。
 ここまで書いてふと・・・スポーツ諸団体の陰湿な体質が続けざまに露見される状況に、スポーツは人間教育の場ではなく指導者エゴの場になってしまったかのようであり、指導者教育が求められるという論説を目にしてむなしさを感じてしまう。いかがなものだろうか。