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No.3084 いじめは社会に広く根付く

2019.01.28

 昨27日、読売新聞では1,3面にわたって「いじめ問題」を取り上げていました。これは公立小中学校において重大いじめ事件が発生した自治体で、その公表をした実態が3割でしかなかったことから、自治体別に意識の差異があることを指摘したものです。
 調査の対象となった105自治体のうち、47自治体で重大事案とするべき143件ものいじめが発生しており、45自治体ではゼロ報告、13自治体は無回答という結果になっています。この47自治体のうち、事態を非公表とした街が26自治体に及んでおり、学校側のいじめに対する思考の原点がわかります。しかも、この調査に無回答とした自治体が13もあったというのも、この問題がなかなか表面化しない現状を示しています。ゼロ報告をした自治体にあっても必ずしも真実を回答しているかどうかは疑わしいと言えます。平成13年に施行された「いじめ防止対策推進法」が本当の防止につながっていないことを物語るこうした現実は、やはり個人情報や対象の生徒の将来などを理由にした学校側の隠蔽思考に歯止めをかけるところまで規定しないと形式的な法律でしかないということです。なんといっても、いじめを受ける子どもの自殺が多発しているところに、この問題の焦点を集約すべきではないでしょうか。

 ここまでは学校を舞台とするいじめですが、学校ではなくとも各種ハラスメントが社会に横行している現実にも目を向けなければいけません。
 ちょっとその前に、同じ学校を舞台として発生した事案にふれたいと思います。先日、東京町田市の公立高校で起きた教師による暴行事件です。生活指導も担当していたこの教師が、注意に耳を貸さず、逆に食ってかかり挑発する生徒にやむなく手を出すに至った経緯は物議を生むことになりました。教師が生徒に暴行すれば、それ自体で教師の人生にもかかわる事案になります。
最初からスマホでの撮影を計画し、その動画のネット拡散を友人と画策した悪意は、堪忍袋の緒を切って計画的挑発に乗ってしまったこの50歳の教師の人生にかかわるかもしれないのです。たとえて言えば、刃傷松の廊下の浅野内匠頭のようではありませんか。
 生活指導の先生は生徒から最も敬遠される立場です。50年以上前の体験を思い出してみても登校時に正門をくぐる際、ピリピリしたものです。けっして好感の持てる教師イメージでは無かったことは確かですが、さりとて悪意を持ってこの教師を評価することはありませんでした。
 散々、注意される状況にあって、いわゆる「うざく」なって計画した今回の生徒の行為は、生徒としての自覚も資格もありません。高校生と言えば、年齢によっては選挙参加の資格が与えられています。社会から大人の資格を与えられても、内面的な精神構造が年齢にも満たない状況は生徒にあらず悪ガキとしか言いようがありません。この悪ガキを仕事の相手とする教師の立場を理解する世の中にならないと、益々ガキはのさばることになります。悪ガキに教師が人生を台無しにされるなどあってはなりません。とは言え、未来のある若者にも人間として変化成長をする機会がもたらされる社会であってほしいと思います。なにより育つ過程で心のバランスが悪くなった原因を家庭に求めることが先決かもしれません。思い出すのは「積み木くずし」です。類は類を呼ぶとか悪貨は良貨を駆逐するといった格言も一考です。
 何らかの処罰を受けるであろうこの教師こそ「いじめ」を受けた被害者だと感じますが、生徒をかばう論理を優先するコメンテーターには違和感が残ります。そうした優しさは綺麗事でしかありませんし、何も解決しないということを認識すべきです。この事件の「悪ガキ」がそのまま歳を重ねれば、例えばあおり運転で殺人をするようなヤカラになるやもしれないのです。
 ともかく、今回の事件は生徒に向き合う教師の姿勢を一層委縮させる可能性があります。それは教師の立場を弱めるだけでなく学校崩壊にもつながりかねないのです。オーバーな話だとは思えません。

 学校以外にも、各種ハラスメントがあらゆる組織内に存在しています。その形式はいろいろで、する側、される側ともに男女かかわりなくいるようです。行政でもつい最近、嵐山町で課長職によるパワハラで3人の部下が3カ月の自宅療養を要すると診断され、この課長は停職3カ月の懲戒処分を受けたのです。暴言を吐き、にらみつけ、挙句は無視をする。もっと悲しいことに、この部署はこの課長一人になったそうですが、それが停職となっては市民サービスにまともに影響が出ることでしょう。
 実際、こうした例は氷山の一角ではないかと思います。幸手市にもあるようですし、埼玉県庁にあっても職員間の「いじめ」の例は少なくありません。優しさや思いやりは持って生まれた資質かもしれませんが、人の心に起因するいじめを社会から抹殺することは不可能なのかもしれません。ならば、陰湿かつ計画的ないじめを許さない厳しさを法制化できないものかとこうした事件が発生するたびに感じます。法律でも条令でも作っただけの満足感で終わり過ぎてはいないかと。いずれにしても生易しい問題ではないことは確かですね。