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No.2091 南三陸町の表情

2011.08.21

 今朝は、ゲリラ豪雨とは違うおだやかな雨模様となっています。こうした雨降りにそれなりの風情を感じるのは、有り難味を感じさせてくれない降り方が日常になっているせいでしょうか。

 さて、前号に続いて南三陸町の現況をお伝えしようかと思います。
 気持ち良く笑顔で迎えてくれた事務局長さん、副局長さん、そして副町長さんに、まずは御礼申し上げておきたいと思います。

 まだ、この時お聞きした内容のまとめができていませんので、今号ではいくつかの写真で、同町の現状をご理解いただきたいと思います。ここ数日、ニュースで南三陸町がかなり取り上げられているようです。

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 写真左上:写ってはいませんが、右側トンネルを出た直後の山側の崩落で、今だに手が入らない気仙沼線と津波による塩害を受けた杉の植林。
 写真右上:警察官舎の上に持ち上げられたままの車。ここは海から500mほどある場所です。
 写真中左:志津川商工会の門が見えますが建物は跡形もなく、奥に見えるのは道路と川を挟んだかなり向こう側にある防災庁舎センターの鉄骨3階の残骸。このセンターは、女子職員が避難誘導を叫び続けて自ら津波にのまれた建物です。この建物前には、献花と焼香台が設置されていました。

 とにかく、一にも二にも「ガレキ撤去」 これが最優先課題ですと一様に口にされる役所関係者の話が写真からもおわかりいただけるかと思います。
 南三陸町の年間ゴミ排出量は約5000トンですが、災害で排出した処理すべきガレキは700,000トンだそうです。単純計算で140年分に相当する量です。復興費用の見積もりは4,000億円ですと。さらっと言われても、えっと驚くほどいずれも膨大な数値・・・それを証明するかのような被災現地の風景・・・まさに荒野化状態です。
 南三陸町が他の被災地と異なる点は、海岸沿いにあらゆる行政機関が集中していために、それらがすべて破壊の対象になっているということだそうです。

No.2090 南三陸町で 

2011.08.17

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 お知らせの通り、13日から南三陸町でのボランティア活動を行い、昨16日に帰宅しました。内容も豊富なので、数回にわたっての書き込みになると思いますが、まずは、整理がなかなかつかないところで、行程にもとづき箇条書きでの行動報告からしたいと思います。内情に関してはまたの機会ということで。

◆往路状況
 13日当日の朝、白河から矢板を中心に70㌔の渋滞というニュースを見て、この時期の選択はまずかったという思いが走った。しかし、考えて見ればここしかスケジュールはとれなかったのだからやむを得ないと理解するしかない。
 ところが、実際は進むほどに渋滞も解消する流れの良さで、5時半に出て、途中2度の休憩を挟んで23時に到着した。道も2度迷ってしまったのに・・。

◆初日の活動
ファイル 27-5.jpg 電話で聞いていた通り、朝8時半にボランティアセンターに出向く。
 受付で新規と継続の区別がされており、新規は150人まで当日は受け付けると言われ、列に並んだ。なんと自分が最後の150番目だった。
 同町新田(にいだ)地区までバスで送られてのガレキ撤去作業。猛暑の中での作業は、1時間継続もままならないほどきついものだったが、適度な休憩と水分補給でなんとかついて行くことができた。

ファイル 27-2.jpg9時半から3時半まで、昼食の購入もままならず(店もない)、水分だけで最後まですます。しかし、食欲もなく、じつは2日目も昼食をとる気持ちにならなかた。水分の提供が不足するということはなかった。

◆2日目の活動
 前日終了時に、継続手続きをしていたので、作業にあぶれる心配はなかったことと、たった1日で気持ちに余裕ができていたのは不思議な感じだった。これは同行の2人、須賀議員と新井議員も同様だった。 
 この日は、センターのある地区とは湾の反対側にあたる津宮漁港での土嚢作りがメーンだった。朝礼説明で、最もきつい作業とニヤッと微笑む社協のリーダーの思わせぶりで、場が緊張となごみに包まれる。このリーダー、聞くところによると、この活動のために職を捨てて現地で奉職した人物だとか。まだ30歳前後と思われる好青年だった。

 バスで30分ほどはあっただろうか。着いたところは、小さな港だった。グーグルの地図にも載っている港そばの民宿は跡形もなかった。そこでの土嚢作りは、まさに予告通り暑さ、重さ、単純さの3重苦でのきつい作業だった。30分やっては10分休むといったものだが、それ以上求められたら、強制労働に感じたかもしれない?? いや、それほどのものでしたよ、ほんと。

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1袋60㌔程度の砂利をスコップで入れ、口を締めて定位置に運ぶものだが、40人ほどのメンバーがせっせと作業に励んだ。この土嚢は、同町の主力産業である銀ジャケ、カキ、ホタテ、ワカメ、ホヤといった養殖イカダのオモシに使われるそうで、多くのイカダは流されてしまったという。一からの出直しということだが、銀ジャケは10月には戻って来るそうだから大急ぎの作業なのだ。
3時頃には、埠頭に満潮の海水が溢れてくるので、作業終了。これは地震の影響で、湾を取り巻く南三陸町全体が70センチ以上沈下したことが原因だそうだ。 
 いろいろな形で震災・津波の残した傷跡は甚大なものだということは、現地に行って理解できることが多かった。

 センターの戻って、息と気持ちを整え、すぐ脇の仮庁舎に出向いた。議会事務局で副課長さんと面談することができた。ここでの話はまた。

No.2089 新盆のスタイルにも・・・

2011.08.13

 私事で恐縮だが、この夏の盆は我が家でも新盆となる。昨年の7月7日に亡くなった母のほぼ1年遅れの新盆だ。今日の4時からだが、それも早々に6時出発を目途に東北に出かける。他の議員仲間2人とボランティアのために南三陸町へと向かう予定だ。
 前々から考えていた活動計画なのだが、互いにどうにもならないスケジュールが続いていた関係もあったのだが、なんとか実現できる運びとなった。

 しかしながら、実は、お盆の時期とボランティア活動との関連で、被災地がどういう状況であるかの読みが甘い点は否めなかった。と言うのは、新聞にも書かれてはいたのだが、盆時期にボラ活動を受け入れている自治体が少なかったのだ。
 確認の意味も込めて、電話をしまくったが、やはり報道そのままで、なんとか南三陸町が受け入れてくれることとなった。

 なぜ、この時期の支援者活動を休みにしているかの最大の理由は、16,000人もの方が亡くなっている関係で、被災地域全体が新盆ということなのだ。ゆえにボランティアに対する指示はもとより、業務依頼もなにも出来にくい状況ということらしい。それはそうだ。さもありなん。そんな中、受け入れてくれた南三陸町には、逆に感謝しなければならない。

 わが母の新盆が、幸せなものだとすれば、いまだ5,000人ほどの行方不明者がいる状況下での新盆とは、一体全体どのようなものなのか・・・想定外、常軌を逸する災害にあって、新盆のスタイルも一般とは異なるはずだ。

 9日から11日までは山形県内4か所の視察出張(後日書き込み予定)から戻ったばかり。強行軍とぶりかえした暑さもあって、家内は熱中症を心配するが、事に熱中しやすい性格から、重々注意して活動にあたろうとと自ら思う??? 
 まあ、どうなりますか。東北道の渋滞が最大の気がかりだ。

No.2087 哀愁と癒やしの夏まつり

2011.08.08

暑い夏が戻ってきた。そうこなくちゃ!と喜んでいるのが、祭り好きの好漢たち。幸手市でもこの土日には、市内各地で夏祭りが開催され、私も味わい深い地域祭りを拝見、体験した。

ファイル 24-1.jpg 写真は幸手榮団地のそれだが、なかなかの迫力で合奏される和太鼓をはじめ、伝統ある神輿、そしておなじみの夜店など、見どころ、遊びどころ満載だった。
 この神輿と山車の関係は、我が地香日向地区には縁がない。それが祭り好きの私にとってはいかにも残念でならない。引越し族、転勤族が集約される新興住宅地は、それが20年以上経過しても変わることがないことに何とかしたいと思うのだが、時は容赦なく過ぎて行く。何年も前から試行錯誤しているのだが、どうにも具体化という点では思うに任せない。

 それはさておいて、ニュースで陸前高田の山車まつりを見た方は多いと思う。関係者の言葉には、一様に復興への足がかりといったような期待と希望の内容が多かった。
 周囲は今だにガレキの市街地、いや市街地だったところを3基の勇壮絢爛な山車がゆっくり練り歩く姿には、哀愁もただよい、被災生活に疲れた人たちの思いはどれほどのものかと感じた。復興へのあしがかりに異論はないが、この被災者の皆さんにとって限りない癒やしになればと感じた次第。

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