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No.2680 後を絶たない連日の虐待事件

2015.12.06

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 昨今は、毎日のようにいたいけな子供が、虐待といういじめの行為を親から受ける事件が多い。

 一昨日だったと思うが、ゲームするのにうるさいからとゴミ入れの中に乳児を入れ、蓋をしたまま死に至らしめた事件があった。昨日は、16歳の女子の舌にたばこの火を押しつけるという虐待事件が発覚した。さらに今日は少年野球でキャッチボールの時に捕球ミスをした子ども数人を全裸でランニングさせた40代の監督が辞任したというニュースが入ってきた。

 乳飲み子をゴミ入れにという発想はどこから生まれるのだろうか。そして、二人揃ってゲームに興じることが目的だと・・・ふざけるな!と言いたくもなる。
 思春期に入った子どもが被害者になる例も少なくない。たばこの火事件は、実母が連れ合いと一緒にこの行為を継続的にしていたというのだから驚きを隠せない。この年頃を対象とした虐待事件では、鎖でつないで食事もろくに与えない家庭内監禁という事件も時折発生している。 

 通常言うところの親の心子知らずではなく、鬼畜両親の心を知らずに虐待を受けている子どもには身震いするほどの哀れを感じる。なんの疑問も持つことさえないかもしれないと思うと尚更だ。

 子育てにおける常識的なこと、そもそも子育ては簡単なことではないということを理解せずに子供を作る親が多くなっていることは事実であろう。いや、出来てしまったというのが正しいのかもしれない。人間として未成熟な若者が肉体的には先に大人になる心と身体のアンバランスが最大の要因だなのだろうと思う。ならば、子育て環境をしっかり整える必要があるのではないだろうか。地方創生も悪いとは思わないが、より詳細な部分で子どもに光を当てるような方策が考えられないものだろうか。
 貧困も虐待のひとつの原因と言われるが、福祉国家スウェーデンでは、妊娠期から就学期まで子育てをサポートする政策が為されているという。その結果、虐待件数も減少しているというのだ。
 先日、どこぞの論説で見たのだが、日本の児童虐待の実態から算出される失われる価値は1兆5千億円以上にのぼるそうである。
 

 さて、後者は体罰の部類かもしれないが、私の感覚では虐待の範疇に間違いなく入る。私自身は礼儀や思いやり、協調性が養われるという点でスポーツクラブでの修練は大いに奨励している。とくにチーム競技や武道などはそれが目的にもなっていると思う。ところが、プレー時の失敗やミスは成長の糧と考えることが出来ない指導者が多いようだ。
 日曜日の小学校のグランド・・・かなり遠くからでも怒鳴り声が耳に入ってくることがある。がなるなんてもんじゃない。怒り方、叱り方でも子供が素直に反省するようなものではなく、萎縮し、のびのび感が無くなるような作法が多い。自らのストレス解消策ではないかと思うことが少なくない。

 若親教育、指導者教育も含め、早く手を打つ必要性を強く感じる。

No.2676 小学校の一つのスタイル

2015.11.26

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 行政課題も各種あるが、国の未来を支えるという観点においては「教育」が最大のポイントであろうと、私は考えている。そしてまた、こうした考え方に意を同じくする方と、これまでの政治活動を通じて懇意にさせていただけるようになった。ひたすら子どもたちの健全なる成長と学力の向上に向けて、教壇に立たれてきた方々である。

 そうしたことが原点となって、一昨日のことになるが埼玉県議会の文教常任委員会の委員長を含む3名の議員がさいたま市のある私立小学校を視察訪問した。私が紹介する形だったことから私も同行することとなった。
 校長先生と教頭先生による親切丁寧な説明を受けた後、校内施設と放課後カリキュラムの見学もさせていただいた。

 一言で言えば、公立小学校とは全てにおいて違うということになる。視察の目は、どうしても行き届いた施設に向くが、授業のあり方にも独創性豊かなシステムが仕込まれている。また、教諭の数の多さとそこから生まれる余裕等々、言い尽くせないほど異なる姿があることに驚かされる。
 確かに、データ的にも学力の高さがはっきりと示されている。

 私立であるからエリア限定通学制度でないのは当たり前なのだが、通学範囲は群馬県や栃木県にまで広がっており、それを苦にする子どもたちは皆無だという。それどころか友達に早く会いたいという気持ちから登校時間は早いという。夏休みなどでも喜ぶどころか友だちに会えなくなることがつまらないといった様子だという。したがって不登校も限りなくゼロに近い。

 もっとも、こうした高質高度なシステムは授業料の高さによって維持されているとも言える。だいたい親の年収が700万円程度は必要のようだ。そうした無粋な話とは別に明るく元気に学校生活をおくっている子どもたちの姿は純粋この上ない。
 カリキュラムで目に止まったのは、右脳開発のため実践しているピコ算盤なる授業があり、英語では、卒業までに大半の児童が読む、書く、話すことについては一定のレベルに到達するそうだ。したがって、公立の中学校に進学する子がどうしても少なくなるという。
 英語はセカンドランゲージとしてではなく文化として教えるという。つまり多言語ではなく多文化のひとつと認識させて授業に当たる。3人いるALTも固定化されており、リーダー格の人は日本人と結婚し、ローンを組んで家を購入しているそうである。授業のあり方について積極的にアイデアを提示してくるという。

 私がもっとも関心をもっているのは、自然や土と親しむ教育を心がけている点だ。ミニではあるものの水族館があることにびっくりしたが、それはそれとして、課外におけるネイチャーカリキュラムの実践は、教頭先生の考え方が生かされているものと思う。
 この教頭先生は、県東部の自治体の教育長を務められた方で、この先生を慕い、尊敬している現役の校長先生も数多くいる。そうした方々の話を伺う機会を持たせていただく中で、教諭たちとの接し方に独特かつ素晴らしいものがあることが理解出来た。

 番外の私にも質問する時間をいただいたので、校長先生に教頭先生のリクルートについて聞いてみた。曰く、人事異動が無いに等しい私立において、新鮮な息吹を取り込むには、常に圏内広くアンテナを張り巡らしているという。
だからといって、引き抜きをするわけではなく、この教頭先生も教育長から引いた時点でのトレードだったそうだ。
 数日前に、どこぞの小学校でイヤナヤツ+イヤナヤツ=ミナゴロシなどと掛け合わせで教えるとんでもない教諭がいた。反日プロパガンダを実践する教諭がいるのも現代学校現場の実態である。
 有能な教育者はそうそういるものではないが、確かな経験に裏打ちされた理想の教育現場づくりを実践されてきた、この教頭先生に私は注目している。まだまだお元気な方なので、本来は地域から手放してはいけない方だったのではないかとさえ感じている。

 

No.2638 戦後70年安倍首相談話に想う

2015.08.19

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 安倍総理による戦後70年談話は、戦争が生んだ悲惨な実態に真摯に想いを馳せ、今後の日本の歩む未来について、見事なまでに世界に貢献する国家の姿を示したという点において素晴らしいものであった。4月28日の米議会での演説と合わせ、安倍晋三という政治家が、世界に誇れる政治家であることを確信できた。
 なにより、静かな面持ちで原稿に頼る姿勢少なく、長めではあったものの、説得力のある談話を発する総理の姿に清々しさを感じた。

 コメンテーターの木村太郎氏をはじめ、あえて談話を出すことがあるのだろうか?という談話そのものの必要性に疑問を呈する声も少なくない。私もどちらかというと、その声に同調する一員である。
 その夜、たまたま安倍批判チャンネルを観ていたら、招いたゲストが「河野さんや村山さんの時に、あまり関心をもっていなかったが、今回は世論もかなり話題に取り上げているようです。私も過去の談話がどういったものか真剣に考えたことはありませんでした」といったコメントを出す始末。過去の談話に対してこの程度なんです。私たち国民の関心度が低い状況で、贖罪の談話を繰り返し発表した事実があったということです。
 戦後談話は詫びることが目的であるがごとくに、キーワードをあらかじめ要求するマスコミや野党の主張には、やはり自虐的な思想を感じ得ないし、未来永劫10年きざみでお詫び談話を発する責任があるはずもない。
 毎年、戦争を回顧するイベントが各地で開催され、メディアでも特集番組が引きを切らない。単に戦争の実態を伝えるという意味であるならば、それは意義深く、尊いものなのだが、常に日本が侵略戦争を強いたという自虐的な意味合いをクローズアップする目的があるとすれば、それは日本の未来のためにどれほどの意味があるのだろうかと思えてならない。
 靖国神社の参拝でも言えることだが、純粋に我が国のために戦い、命をおとした英霊に感謝と安らぎをの想いで手を合わせることでいいのではないか。戦争が好きな人などいないし、戦争をしようと思っている人などいないという性善説を持てない人こそ、より好戦的な人なのではないか。それは、ある種の人たちに伝統的に血の粛清といった形で示されるのと同じように思えてならない。主義主張を貫くためには、本質的に人の命をなんとも思わない思想は世界平和の敵でしかない。

 今回の安倍談話は、日本の未来への方向性を示し、世界平和に貢献する姿を訴えた点において、批判自体を短時間で収めてしまうほど国民に合意と納得を浸透させてくれた。世界でもそうした評価が多かったようだ。その点では、70年談話を出す意義は、今回に限ってあったと考えているし、ひょっとすると、総理は今回で談話を打ち切りたい、いつまでもお詫びの表明を続けることはないという想いで、あえて今回の談話に踏み切ったのかもしれない。
 お詫びのキーワードについて連日のように報道していた朝日をはじめとする反自民新聞各紙も、声を潜めたしまった感がある。朝日などは、あろうことか談話は出さないほうがよかったなどと書いてもいる。国民が認め、5%も支持率が上昇したことなどから、攻める手だてを逸したということかもしれないが、誉めることもできずで迷走しているように感じられてならない。挙げたこぶしを戻すにも戻せない姿は滑稽でもある。 
 特に、20~30代の若者に、談話支持者が多かったという事実は、頼もしい限りではないか。自国を悪い国だと思い続けることになんの意味があるというのか。反省も賠償もするべきことはしっかりした。それを安倍総理は今回の談話で訴えたかったはずである。

 
 もとより、知識・技術優先国、武器先進国、企図力優先国が、古くから新たな経済効果を求めて未開地への植民地化侵略を続けた歴史的経緯が、最後の最後に大東亜戦争のきっかけになった。ソ連の不可侵条約破りで多くの虐待を受けた日本人がシベリア、樺太にいた。通州事件など中国各地でも虐殺された多くの日本人がいた。そして、沖縄、広島、長崎は言うに及ばず本土大空襲で命を落とした日本人も。
 当時の陸軍の交戦決定は歴史の流れの中でやむを得なかった部分もわからないではないが、戦争終結を闇雲に伸ばした無駄な心意気・・いや暴走ぶりには、同じ国民として、どうして素直にもっと早く降伏宣言できなかったのだろうかと、悔やまれてならない。少なくとも、終戦5ヶ月前の東京大空襲の前に降伏していたら・・・

 しかし、この戦争の結果、核の使用は最初で最後の歯止めとなり、独立自尊を果たした国家が多く生まれ、先進国が加わる国際間経済的侵略行為はほぼ姿を消すこととなった。ほぼと言うのは、ロシアのアフガン侵攻やクリミア制圧、中国のウィグル、チベットや南沙、西沙に醜悪な姿が残されたり、見られることによる。 
 このように、今、行われている紛争および起こしうる可能性を秘める国家がどこかを考えてみれば、平和安全法制の必要性にたどりつくと私は考えている。若者の間にも徐々にこの考え方が理解されつつあるように感じている。

 戦争回顧のあり方には、日本が世界の中で最悪の枢軸国であったがごときを蔓延させる風潮があり、蔓延させようとする動きが中韓に限らず、国内にあるというのが、他国と比較して日本の特質となってはいないだろうか。そう思うのは私だけではないはずである。自分の国が、そんなに他国から批判され、信用されなくなることを望む国民が多いという意味では、日本は世界一かもしれない。大いなる皮肉だ。

 過去の談話を否定せず、継承するとし、反省の姿勢を示しつつ、安倍総理はつぎのような文言を配した。
政治的、外交的に、歴史を歪めることがあってはならない」
「私たちの子や孫、先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」

 他のフレーズからも、戦後談話はこれで打ち切りにしたいという総理の想いを感じたが、皆さんはどのように受け止めたでしょうか?
 国際的には、次の80年談話の必要性が問われることはないだろうし、(実際、今でも要求されているわけではないのだが、)マスコミやレッドレフティーの思惑次第、すなわち自虐史観をいつまで引っ張るのかということに尽きるのかもしれない。
 最後の戦後談話。これでいいではないか。

No.2610 泥田に遊ぶ素晴らしさ!

2015.06.15

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 本格的な雨に見舞われず、梅雨に入った感が少ない日照りの連日、コメの育成はいかがなものか少々心配になります。本当に水というものの存在にはいろいろ影響される人間社会です。
ファイル 514-1.jpg それでも、昨日は少々雲間の多い日でしたが、羽生市では第6回全日本泥んこバレーボール大会が開催されました。自然を満喫して多くの大人子供が歓声をあげていました。そして、イベントをつつがなく運営するための随所に施された諸々の準備・気配りに感心させられます。簡単に出来そうに見えますが、どうしてどうして!
 消防団をはじめとする関係諸団体、諸氏のご苦労に敬意を表したいと思います。

ファイル 514-2.jpg 我々の少年時代は遊び事に小うるさい規則や規制はなかったし、いわゆる「おおらか」な面がふんだんにありました。おそらく、この泥んこバレーボールを見て、泥を飲み込んだり、目に入ったらどうするんだ!とか、ケガでもして破傷風になったらどうするんだ!といった意見が出そうなくらい「泥の田んぼに戯れるイベント」なのですが、私はこういったイベントが全国的にもっと増えれば、古き良き日本を徐々にでも取り戻すことが出来るのではないかと感じます。
ファイル 514-3.jpg もっとも、ゲームをしている時が最高!と思っている子供が多いのも事実と考えると、なぜか寂しくなった現代社会に悲しさを覚えてしまいます・・・。

 あれもダメ! これもダメ! といった風潮は、学校教育の中にも多く、ちょっとしたことで大騒ぎするモンスターペアレンツに先生がおののいている現実は各地にみられます。先生もこじんまりとせざるを得ない現代事情では、この羽生のようなイベントが広がりをみせることは簡単ではないかもしれませんが、とても素晴らしいヒューマン・コミュニティー形成の原点を垣間見た気がします。

No.2608 ほぐれた気持に安堵

2015.06.03

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 今日は朝イチで嬉しいことがあったんですよ。
 №2602で書いた内容に関してなんですが、1年生の時から「おはようございます」の返事がなく、2年生になってからの成長を期待して、心の奥でひそかに注目していた女児生徒が、今朝、間違いなく「おはようございます」と返事してくれたんです。まだ、顔を正対することはできないのですが、「いいじゃあないかそんなこと」と自分に言い聞かせ、そのあとの「行ってらっしゃい!」がいつになく、活力あふれる声質になっていたように感じます。

 実は、月曜日にこの子のいる登校班がかなり遅れてやってきたんです。見ると、その女児がぐすぐすしゃくりあげて泣いているではないですか。どうしたんだろうと思いつつも、ヘタに声かけて更に泣きを誘ってはまずいし・・と思いながらも、思い切って声をかけたんです。
 おそらく、お母さんに叱られたのかもしれないと思ったので、そこに触れるとまずいと考え、「どうしたのー○○ちゃん、そんなに泣かないで、おじさんまで悲しくなっちゃうよー、元気出して学校行こう!」と。でも、泣き止むことはありませんでした。
 それから翌火曜日の朝、「○○ちゃん、おはよう! 今日はいい顔してるね。昨日は学校でいいことあったのかな」と。でも、返事はこの日もありませんでした。

 そして今日です。「はーい、みんな今日は雨になっちゃったなー! でも元気出していこうな、はい、おはよう、おはよう、おはよう・・・」と一人一人に声をかけると、あの女児が「おはようございます」とはっきりと声を出してくれたんです。
 こうなると、「どうして返事してくれたんだろう?」と素直に喜ぶだけで終わらないのがオジンのオジンたるゆえん? 
 ○○ちゃんと月曜日に初めて名前を呼んだことがよかったのかもしれないとかいろいろ考えるのですが、子ども心もけっこう複雑かもしれないという結論に達し、疲れることはやめることに。明日また返事してくれるかどうかわからないし・・・。
 いや、大丈夫。信じる者は救われる、うん???
 

 まだ、ノドハナの調子が完全復調とはいかない状況ですが、子供と元気にあいさつを交わせるということは素晴らしいことだとあらためて感じさせてもらいました。こういうのを「小さな幸せ」というのかもしれませんね。

 

No.2574 今朝の埼玉新聞一面から

2015.01.21

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 今朝は体感的にはさほどの寒さは感じませんでしたが、気分的にはどんよりするような曇り空でした。でも、子どもたちは元気に挨拶してくれるので、いつものことながら元気をもらっています。
ファイル 478-1.jpg さあさあ、今朝は嬉しい新聞記事が届きました。昨年12月に落札完了していた県立幸手高校に関するものです。
 実は、私も年末から新年にかけてお招きいただいている会合で説明している内容がほぼそのまま掲載されています。それも一面見出しトップです。
 
県の施設が空き施設となった場合、つぎのような手順で後処理されます。
①県自体が使用する予定があるかないか。
②県が使用する予定がないとした場合、その施設の立地する自治体に使用する予定があるかどうかを確認します。
③自治体が使用する予定がないと決定した場合、県は公募にかけます。

 と、ここまでの単純な跡処理の流れから、幸手高校は埼玉県により民間に売却される手続きをふむことになったのです。日本保健医療大学では、幸手高校の一年前に廃校手続きがとられていた香日向小学校の利用に関心を示していたことから(実際はそれが叶わなかった)、幸手高校への関心度もさらに高まっていったわけで、学校跡地を校舎も含めて、同じ教育事業に利用してもらうことは願ってもないことと私も感じていました。
 しかしながら、少々心配したことは、実はまだ圏央道の開通前ですので、距離感がわからない方が多いと思いますが、同校跡地は幸手インターチェンジから至近距離にあります。したがって、全国的にインターチェンジ周辺では、夜ともなるとネオンきらめく業種の進出が考えられ、地域環境が激変しかねません。実際に、県内の主なインター、ジャンクション周辺にも、そういった傾向が見られるわけです。

 また、校舎もまだまだ十分使用に供する建物ですので、これを利用してくれる事業と考えると、やはり学校事業がいいということになります。また、同校出身者の方々にしても校舎が残るということで願ってもないことと考えられました。
 それで、私が県に要望したのは、公募にあたっては一般公募をかける前に、教育事業に限定しての第一段階をふんで欲しいというものでした。当然、日本保健医療大学の思惑は思惑として、公募ですからはたして結果はどうなるかは神のみぞ知るわけでしたが、これこそが幸手市のために、最良の公募手法ではないかとの確信がありました。

 はたして・・・結果は日本保健医療大学が幸手市で二つ目の大学運営意欲を示し、名乗りを上げることになった次第です。
 県にとってみれば、ほぼ予定していた5億円強の金額で落札され、幸手市としては、教育と医療福祉に関わる事業が増すことでのイメージアップにつながり、さらに若者がまた増えるという状況も生まれます。高校出身者は思い出深い校舎が取り壊されずに残る結果となり、また同校設立にあたって土地を提供していただいた旧地権者の皆さんも納得されていると聞いております。

 県立高校再編整備計画では、統廃合となった高校のうち、まだ4校の活用が決まっていませんが、関係者の多くが納得する結果に、多少なりともお役にたてて自身ほっとしましたし、素直に喜びを感じています。
 それにしても、自分が関わった事柄が、これほどの取り扱いで報道対象になるというのは感慨深いものがあります。

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