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No.3017 山口武平氏死すに想う

2018.08.08

 №3015で、ドンにもいろいろありを取り上げたが、そのわずか数日後に、茨城政界のドンとして長きにわたり県政のみならず国政にも大きな影響を持っていた山口武平氏が亡くなった。享年95歳。
 1955年に茨城県議に梶山静六と同期当選し、途中先代中村喜四郎の死去にともなう参議院補欠選挙に出るも、無所属出馬の中村未亡人に敗戦、以来国政へ転出することなく県議一筋55年の政治人生を送った。2010年の引退まで14期という気の遠くなるような期間を県議として務めたが、これは広島、滋賀に前例があるだけの全国3番目のことである。しかし、90を過ぎ55年もの間を政治家として活動することには良し悪しは別にしてただただ感服するしかない。埼玉県自民党にも似たような状況があって、現在10期目となる最古参議員はまごうことなきドンであることを4年を共にした小生が感じている。県職員や自民党県議はもとより国会議員までもが、このドンの顔色をうかがうという現実を目の当たりにしている。小生は経験はないが、職員や県議が震え上がるほど怒鳴られている場面を何度か見ている。今、上田県政に何かと注文をつける自民党県議団の在り方はこのドンの影響無くして考えられない。全国のほとんどの都道府県議会は自民党が過半数を占め、そこには議会の舵取り役を強烈に発揮するドンが存在するものだ。なかでも、山口氏はひと際ドンとして光り輝いた地方政治家だったのではないだろうか。
 茨城には全国で最も選挙に強いと言われる2代目中村喜四郎現衆議院議員がいる。古くは、共に猿島郡を選挙区とした二人だが、山口氏は岩井市から坂東市への地区変遷の流れを逆境とせず地盤を強固にしていった。
 猿島郡と言えば、幸手市が合併を模索した五霞町を含むが、この時の合併は互いの住民投票において賛成が多かった場合、その後は両県議会の可決を必要とする県外合併だった。結局、この合併は幸手市の事情で発展を見ず、法定協議会も途中解散となったが、はたして、茨城県議会はどういった結論をもたらしただろうか。山口氏が中村氏の地盤を削る画策を考えれば自民党県議はこぞって賛成することになり、合併は可決承認となる。しかし、いくら確執があっても茨城領が減ることに賛成することへの反発も考えられる。そうした危険を侵してまで、中村氏に対抗心を燃やすことから派生する自らへの影響を良しとする人柄ではなかったと聞き及んでいる。腹のすわった方だとの評価もあった。2人の思惑は今となってはわからないが、五霞町民の意向を優先するかどうかが本来あるべきだとは思うものの、当時の私はそれほど生易しいとは思えなかった。県外合併の前に県内合併という思いが強かったこともある。
 中村氏が有罪判決を受けた後、山口氏はますます自民党県連での権勢をふるうこととなり、中村氏の当選のたびに自民党復帰が噂されたものの山口氏の力がそれを許さない状況が続いていると言われる。政治の世界の人心とは、かくも複雑な遺恨・怨念の呪縛が作用するものだと、小生も実感として感じる部分がある。まさに好き嫌いに関わる意地が存在する世界ということであるが、自分自身、それほどの大きさではないものの着実に人心に揉まれる状況を感じつつある。世情も人情も一筋縄ではいかないということを痛感することになるのだろうか。
 とにもかくにも、半世紀にわたり大きな存在感を示した山口武平氏に敬意を表すると同時に、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。