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No.2847 直接民主主義の功罪

2017.01.25

 先日、ある市議の集会に参加した。私は冒頭の挨拶でその市議の存在意義を紹介し、その後はほとんど振られることもなかったのでおよそ2時間20分を用した比較的長めの会の意見交換の流れに聞き入っていた。参加者の意見提案要望といった幅広い範囲での話を聴くというものだったが、そこで後述するがある中年女性の訴えがとても印象に残っている。

 昨年秋に、一部市議と市民団体によって幸手橋上駅建設の見直しを要望するという目的で署名運動が実施された。陳情と請願の目的で行われた署名は合わせて8千筆近い署名が集まり議会に請願提出された。しかし、本議会の前段の委員会付託で否決される結果となった。すでに駅舎工事が進み始めていた頃のことである。
 その後その署名運動の主体となった方々により、12月中旬に市内施設で大集会が開催されたそうだが、実際は会場の半分が埋まる程度だったと聞き及ぶ。
 最終的には、現市長のリコールを目的とする市民運動にまで盛り上げたいとの想いもあったと聞く。
 たしかに、それを訴えるかのように何度も手を挙げて今の市長のままだと街はギリギリの状況になると説く他地区からの参加者もいたが、およそ他の参加者が高揚しているようには感じられない空虚な言葉として響くだけだったように思う。タイトなスケジュールでの署名の少なさや、新駅舎に賛同している市民も少なくはないし、諸々の条件環境を冷静に交通整理出来る人材がいなかったのではないかと感じている。署名者のなかには憤懣やるかたなしの方が多いと思うが、こうした皆さんにどういった報告が届けられたのだろうか。

 話は戻るが、この運動に賛同署名したのが先の中年女性である。しかし、女性曰く「市政のムダが省けるものと考えて署名したが結果としてそれが実らずに終わった。こうした反対の声を聞き入れてもらうためにはどうしたらいいのか。結局こういう結果になるのであればもう署名もしたくなくなるほど悲しい気持ちでいっぱいです」という内容だった。政治や議会の深層に立ち入ることのない純粋な市民の思いを代弁する切実な声は泣きたくなるほどの心理を裏側に秘めるものだった。これはよく理解できる。だから市民運動の醸成はけっしてたやすいものではないのだ。
 市民運動や署名運動は功を奏すればいいが、はずれると市民の思いが離散するという負の遺産を残しかねない。そこに間接民主主義に直接民主主義を持ち込む場合の慎重さが求められるし、議員は滅多には市民の結束を求めて少数議会での挽回策を講じるべきではないのだ。

 議会制民主主義は首長と議会の二元制で成り立つ。時にその二局が癒着していたり、そこまでいかないものの過半数を占める側が市民思考と対立する立場にあると市政は紛糾する。しかし、反対があれば賛成もあるのは世の常であるから、一方的に市民運動している側が正しいとは言えない場合もある。
 私が市議8年の間に市民の署名が議会で諮られたのは3度ほどあっただろうか。議員定数削減、病院移転反対、病院誘致賛成などであった。いずれも15,000から28,000という署名が集まった。病院移転反対は権限者が病院だったために市としては手をくだしようのない出来事だった。ご存知のように久喜に移転した厚生連総合病院の1件である。あとの2件は、議会で反対側にあった議員たちが賛成に回る結果をもたらしたが、署名の数の多さに反対を貫くことが困難と判断したものと考えられる。署名が議会を動かした例となった。市民運動とか署名運動はことさらに困難を極めるものだ。

 思うに、イギリスがEU離脱という予想を覆す国民投票の結果をもたらした。当時のキャメロン首相としては、移民問題などでEU内の不安定さに不満が募り始めた国内を軌道修正するために、ある意味自信をもって実施した国民投票であったのだが、直接民主主義に訴えた目論見が目的とは逆の結果をもたらした。
 ところがである。昨日になって離脱には議会承認が必要だとする最高裁の判断がくだされた。原告側の訴えにより政府の敗訴という結果となったのだ。国民投票を最終結果としない結果にイギリス国民は良かれ悪しかれ驚いたことだろう。万が一でも議会で否決されたらイギリスはますます混迷することになるであろう。
 そして、議員の賛否にどちらにしても国民の厳しい目が注がれるのは間違いない。自らをバックアップする有権者に離脱賛否どちらの方が多いかによって採決賛否を選択するとなると、予想を覆して議会では離脱反対の結果がでないとも限らない。事と次第によっては、メイ首相はとんだ貧乏くじをひいたことにもなりかねないのだ。
 日本では憲法改正が現実化すると最後に国民投票が待ち受けているがどうなることやら。