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No.2693 久喜総合病院の新たな動き

2016.01.13

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 昨日から急に冷え込み始めた。朝晩との気温差に要注意だ。
 もっとも、暖冬などとありがたがっていると、後々いろいろな弊害が出てくるそうだ。冬は冬らしくないと。
 寒いと言えば、久喜総合病院の経営権をJA厚生連が譲渡するという、なんとも冷えた話が今日突然舞い込んだ。

 同病院はもともと幸手市にあったのだが、私が市議2期目に入ったあたりから久喜市への移転話が出始めた。きっかけは、久喜市長選の出陣式でいきなり久喜市側が披露し、来賓として着座していた町田幸手市長が驚いたという。
 幸手市議会では厚生連の経営陣を召喚し詳細を聴取するなど、合併からの流れをそのままに、市長派と反市長派に分かれての大論争が繰り広げられた。

 その最大の論点となったのは、厚生連から出された50億円の資金援助話だった。もともと経営母体は厚生連という民間であり、幸手市が運営に口を出す権限などなかったが、ここぞとばかりの反市長派の論理は、市民感情に訴える論法も含め「50億円を拠出してでもとどまらせるべきだ」の一点張りだった。実態や詳細のわからない市民からすれば、病院移転話は心理的に憂いの対象以外の何物でもない。移転に反対の署名運動が起こったのもそういった心理を反市長派の議員が誘引したものだった。

 ところが当時、2期目を迎えていた町田市長は市の財政はとても補助金を給付する余裕などないと突っぱねた。それは当然のことだった。1期目当選時の幸手市は、第二の夕張市になる可能性を問題視される財政状態だった。それを「選択と集中」「アクションプラン」「身の丈にあった行政」などのキャッチフレーズで、健全財政の回復を主眼に行財政運営に取り組んでいる最中の出来事だったのだ。

 第二の夕張論は数値でも示されていたので、おそらく、当時の市議全員がそれをわかっていたと思うが、その認識を表に出して市長を支える立場と、腹にしまったまま50億拠出を要求する立場とが熾烈にぶつかりあった。反市長派は病院を持って行かれたことを町田市長の汚点にしたいとする政争そのものだった。

 実際は、すでに久喜市と厚生連の話は出来ていたというのが事実であったと確信している。と云うのも、その時点ですでに、久喜市移転に係るマーケティング専門会社の分厚い資料が出来上がっていたのだ。
それでも市長責任を問う勢いが止まることはなかった。幸手市の議会、市民を巻き込んだ移転も、結局、平成23年4月1日に久喜市上早見での開院にこぎつけた。
 資金援助について久喜市は、平成19年から5年間にわたり約35億円の補助金を拠出している。50億円にまでは至らなかったものの一自治体が請け負う額としては高額なものであった。しかし、その開院からわずか5年で経営の肩代わりに至ったことについて厚生連の責任は問われてしかるべきである。隣街のことではあるが、東京理科大学の移転に続いての病院問題ゆえに、本年最初の久喜市議会は注目に値する。

 厚生連は熊谷市にも同様の病院があるが、それも肩代わり話があり、実は、久喜も熊谷も相手先は決まっているようだ。それについては、明日以降の新聞でご確認いただければと思う。

 大枚の補助金を受けながらも、厚生連は病院経営を安定化させることはできなかった。しかも新築での出直しで久喜総合病院として生まれ変わったのにだ。
 それにしても、50億円がたとえ35億円に減額されたとしても、あの時、幸手市が資金援助していたらどういったことになったやら。町田市長の判断が間違いではなかったということになろう。
 

 その後、今度はほとんど間をおかずに、町田市長は東埼玉総合病院の杉戸町から幸手市への誘致話をもたらした。すると今度は市長の手柄にさせてなるものかの議会論争が始まった。反市長派議員たちは誘致にあらゆる理由をつけて反対するのだが、市民の目があるので、その反対理論も巧妙だった。そこで、私たち誘致に賛成の市長派議員と市民有志とで誘致賛成の署名運動を始めることとなった。もとより、市民には歓迎ムードが多かったわけで、当時の人口の50%以上にあたる28,888名の署名が集まった。これには実際驚いた。かくして議員も多方が反対しにくい状況となったのだ。 

 今回の件は、いろいろな感慨が浮かぶ話だ。近隣住民もお世話になっている300床もある立派な施設ゆえ、引き受け先にはしっかり立て直してもらいたいと思う。