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No.2122 遅々として進まぬ現地復興

2011.11.30

 月曜日から宮城県の視察に出かけた。自民党県議視察団代表一員としてのものだが、まず、仙台市宮城野区蒲生地区に設けられているガレキ搬入場と被災後に造られた焼却場現場を視察。写真の通り、まだまだ未処理のガレキが種類別に見上げるような高さに積み上げられたままだ。車、家電、木材、根っこごとの生木、タイヤ、瓦、その他分別不能ながれきの山、山、山。すべてが処理されるまでには途方もない期間がかかるそうだ。あくまでも仙台近郊の範囲の話である。
 それでも、仙台は政令都市でもあり、財政は他の被災地に比して恵まれているので、市内被災地区を一通り巡察した限り、一定のペースで復興の兆しは垣間見えた。しかし・・・

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翌日は南三陸町にお邪魔した。県議仲間と三人でお盆の時期にボランティア活動でおとづれ、わずかばかりだが「心をひとつ」に出来た町だ。2度目の今回はどれほど街の回復が見られるかと期待していたのだが、およそ、目に入る光景は当時と変わってはいなかった。あれから約100日、政府の緊急復興対策は現地に光を与えることなく、時ばかりが過ぎていると、状況説明兼意見交換の場で、悔しさをにじませて語る佐藤仁町長。あの、最後まで避難放送をして亡くなった女子職員がいた防災対策庁舎の屋上にいて、津波に飛ばされた場所の違いで、たまたま助かったという。      
 県警本部警備部長は、遺体の収容に関して困難な中での活動状況について、顔を歪ませて報告してくれ、南三陸町の現状から先の選挙への出馬を見送った同町住人の元県議は、先の選挙では準備をしていたが、急遽立候補を見送ったという。
 ただ、救いは内湾に3ヶ月前にはまったく消失していた養殖いかだが、かなり浮かんでいたことだ。私たちが作ったいかだ用のオモシ土嚢も役立っていると思うと嬉しい反面涙腺がゆるむ思いで見つめ続けた。そして志津川漁港と市場も再興し、水揚げ場には銀ジャケやタコなどの名産が並んでいた。

 町長の説明では、7割の家屋が壊滅、電気に3ヶ月、水道は5ヶ月復旧に要し、9500人にも及んだ避難所生活は、「水も電気も情報もプライバシーもない生活だった」という。
 また、「処理すべき事象が山積みの中、熟慮の上の決断が出来ず、その場その場で処理せざるを得なかった」こうした状況下では、なによりも情報の素早さが大切なことであり、防災計画としては、災害発生後の行動計画が重要だとの認識を新たにしたと・・・。さらに「復旧・復興は長く険しい道のりだ」と言い、比較写真で見られる旧市街地に住民が住むことのない「職住分離の高台移転」を進めるという。旧市街地は今だに家屋の基礎だけが残るノッパラ状態だった。しかも土地全体が下がったので満潮時に大潮だと海水が100mほど内地に流れ込むそうだ。

ファイル 59-5.jpg現地ではまだボランティアの姿があり、彼らのテントもいくつか張られたままだった。これからの季節、さぞや凍れることだろう。
 もとより、再度現地ボランティアを!との思いがあったが、今回の視察でさらに気持が奮い立っている。

(南三陸町の写真は次号に・・・・1ブログで5カットまでなもので)