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No.2609 郷愁をよぶ恩人の死

2015.06.10

 私が平成15年の幸手市議選に初挑戦した際、ガレージを選挙事務所にしつらえていただいたり、その後もなにくれとなくお力添えいただいたSお父さんが今月2日に亡くなられた。そのせいもあって、なんとなくブログへの意欲が削がれていたようで、ふと急にブログ更新をしないといかん!と思い立った次第。
 実は、私自身も年を重ねたという実感を、選挙戦後にあらためて感じていたのですが、私とともに熱く地域政治を見つめたいただき、後押しをしてくださっている方々も、皆、いろいろな状況において歳をとられたなあと思う。そうは言いながらも、皆さんがこれからも健康で有意義な日々をすごしていただきたいものだと、今回の訃報に接しつくづく感じる。

 さて、告別式で弔辞をお引き受けするにあたり、これまでの12年間が走馬灯のようにめくるめく思い出され、ここ数年涙腺が極端にゆるくなっている私には、Sお父さんとの関わりを思い出すだけで涙があふれてきて仕方がなかった。

 幸手市にあって、最も新しい新興住宅地として大きなコミュニティーを形成していた香日向という地区も、すでに30年近い年月が経過した。小学校は統廃合され、以前にも書いたが最盛期の小学生が650人いたのが、今はわずか37人。東京50㌔圏にある過疎化タウンの見本のような戸建集合住宅地である。幸手に移っては来たものの、どちらかというと幸手市になじむ感覚が乏しい条件、つまり約1,200戸の世帯主の多くは、東鷲宮駅という現在の久喜市に位置するJR駅を利用する勤め人で、幸手市民としての立ち位置が今ひとつ希薄な住民だったといえるでしょう。かくいう私もそういった一人でした。

 そこへ降って湧いたような合併問題が発生し、当時、諸事情によりフリーな状況にあった私に、市議への勧めがあった。15年1月17日のことだった。
「議会が変われば市政が変わる!」というキャッチフレーズだったですね。
 そこから、地場出身者のいない全国寄せ集めの地域仲間たちが、悪戦苦闘して私の選挙戦を戦った。結果は3位の上位当選を果たしたのです。
 それから、先の県議選までの12年間、市内に多くの支援者が形成されていき、こんな自分がと感じながらも政治家冥利につきるという感慨を持たせていただているということです。
 議会も、町田市政の8年間は市長支援議員が常に少数だったこともあって、大荒れの状況が長く続きました。今は昔、でも街のためにの信念でやるだけやったし、その分楽しかったです。
 

 そういった中、先の恩人は議会傍聴やら、私の報告会や集会への参加などの他、地域の子供たちに自前の山車を曳かせてあげたいとの私の提案に、快く応じていただき、連日の真夏の猛暑のさなかの倉庫内作業から、見事な玄人はだしの山車を完成させてくれたのです。
 とにかく、影に日向に私を支えてくださったのです。
 Sお父さん、ありがとうございました。どうぞやすらかに!