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No.2577 パスポート変換騒動に想う

2015.02.12

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 フリージャーナリストとは、マスメディアにとって評価度の高い存在なんだということをあらためて感じたのが、新潟のフリーカメラマンのパスポート変換命令事件。

 世の中森羅万象、必ず賛否があり100%という現状はよほどのことでない限り有り得ないが、この事件でもやぱっりだ。しかし、どうだろうか?
 この事件に限らず、私のところには時折、「あなたはどう思うか?」といったメールが届く。自らに直接関係することには耳を傾けるが、案外にそうでもない内容が多い。興味の違いもあるからやむを得ないと言い聞かせているが、この事件では少し想うところを書いてみたい。

 
 そもそも、二人もの命が無残な形で奪われ、他国にいろいろと面倒をかけた世界注視の事件直後に、その国に行きたいとはなんたることか!
その理由は「戦争の悲惨さを伝えたい」「戦火に苦しむ人々の実情を伝えたい」
 パスポート変換という事態を予測できていたかどうかわからないが、まさにこの時期にあってはパフォーマンスそのもの。パフォーマンスは厳しすぎるというなら、自己満足の世界にひたっているとしか思えない。
 なぜなら、こうした人たちは定期業務ではない分、マスメディアとの関係は一攫千金の契約関係にあるのだ。亡くなった後藤さんはテレ朝との契約で出かけたということだが、わずか数分の激ショットで3ケタをゆうに超える報酬を得る世界だという。それで名が上がればさらにギャラはアップし、帰国すればコメンテーターとして貴重に扱われ、さらに写真集まで発行できる。ピュリッツァー賞でも選ばれようものならその名声は世界に広がる。
 今回、中東に行きたいと言っただけですでに有名人になったことは間違いない。そうした一連をどこまで意識していたかは定かではないが、尋常な思考に感じられない。

 今回の事件で真っ先に反省するならば、自己責任という言葉は、虚しく響く言葉に過ぎないということではなかったか。自己責任などとりようもないのだから・・・。つまり君子危うきに近寄らずではないが、危ないところにはいかないというのが大原則であるということを私たちは過去にも学んでいる。
 人質になったら、国がどんな大金でも積んで助けてくれるなどというのであれば、それは大いなる甘えであり、妄想暴挙に近いものがある。こうしたことは、もっと以前から学んでいたはずだと思うのだが・・・。
 亡くなった方の命は尊いが、人命尊重で身代金要求額をすんなり支払った場合の更なる危険度アップは尋常ではなくなる可能性が高い。こうした外交取引では毅然とした対応しかない。社民党のあの弁護士議員は払うべきだとのたもうた。それは世界協調とはおよそかけ離れた身勝手な論理だという知識を持っていらっしゃらないことをさらけ出した。政党や首相を批判の対象にするようなことではないのだ。

 どうしても極限報道の精神を敢行したいのであれば、何もシリアだけではないはずだ。戦争に近いか、無警察状態の地で悲惨な生活をしている人は世界各地にいる。アフリカなどはいずれの国もそうした状況にあえいでいると言える。
 逆に言えば、そうした地の内容は、今マスメディアが求めていないということになる。ニュースには、時間とともに場所にも旬という価値観が求められる。
 それにしても、特定のメディアには、やたらと言論の自由とか報道の自由を唱える向きもある。今回の場合、あの報道ステーションはやっぱりというか、それに近いものがあった。さらにひどいことに、中東各地にいる日本人の人数を教えているではないか。このデータ報道に最もよろこび、価値を感じるのはいったい誰か? 考えればわかりそうなものだが。
 ソウルの産経支局長出国禁止措置も今回と同様の価値観におく向きがあるが、彼は、韓国のおかしくもあり、いびつな政治状況を自らの使命をもって伝えたが、大統領侮辱罪で韓国の管理下に置かれてしまったのだ。日本など安倍総理がどれだけ叩かれているか。いったいどういう憎悪感情をもってしても、あのような表現は思い浮かばないというような醜い批判を受けているのだ。なんと言論の自由の行き渡った国だろうか。私は日本人として日本に生まれて良かったとつくづく感じている。言論の不自由を感じたことは一度もない。