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No.2275 松井選手引退に想う 

2012.12.29

 なんともはやである・・・やはり、年の瀬に選挙があったお陰でせわしない年末となっている。いまの私には「しわす」ではなく「せわす」に思えてならない人生で最もハードな師走だ。それでも家庭の年末行事にまったく不参加というわけにもいかず、苦しく辛いといった感覚も多少ついて回る。

 さて、少し大袈裟に書き始まった更新も、実は、未来の党のあまりにも予測が当たりすぎたあっけない幕切れを書くつもりだった。しかし、あえてこれを題材にするのも馬鹿らしくなった。9ヶ月もの長い間、故郷被災地を訪れることなく、選挙のことだけが優先する政治家が悠々当選してしまう。
 政治を一定期間で見直す意義を持つはずの選挙とは、いったいその意義を発信してくれているのだろうか? 滋賀県知事も軽さの上に不見識というのが私の評価だが、同情の目もある? ない? まっいいか、もう私自身の判断を信じよう!

 松井秀喜・・・5打席連続四球で敗戦となった甲子園の試合直後、マイクの前で憮然として言葉が出なかった松井少年。年を経てもどちらかというと寡黙さを感じさせる松井青年は、プロ意識を表現するために、マイクを向けられると無理無理発言していたように見えた。そしてあれから20年・・・やはりインタビューが苦手なのだろうか?・・・人生の区切りのインタビューでも、有名人は辛いなあと感じさせるものがあった。
 長島人間の私が、この引退という厳しい現実にあって、師と弟子が、共に一緒に素振りをしたことが最高の思い出と語る。真の4番バッターへの道を切り開いたこの楽屋裏の場面があったからこそ、世界の松井が生まれたのであって、そうでなければ平凡な4番打者だったかもしれない。いや、それに違いない。鳴り物入りが鳴りもせず響きもせずに淘汰されていった例がどれほどあっただろうか。

 実は、私が政治の道に入った年が2003年・・・松井ヤンキース移籍の年である。この年の幸手市議選は4月27日だったが、そのほぼ1ヶ月前の3月31日に、松井は初打席で初安打、初打点というデビューをはたした。まさに順風満帆な船出から、4月8日初ホームランが満塁本塁打、4月12日は初のサヨナラヒットと続き、7月17日にはサヨナラホームランを見せてくれた。

 その年の1月17日に友人の言葉から市議選への挑戦を決意し、その後の3ヶ月間、ほぼ誰もが初体験という素人集団による選挙戦の真っ最中に、松井は私の疲れを癒すだけでなく、発奮させてもくれたのだ。
 そして、その後の私にもけっこう厳しい現実が待ち受けていたのだが、松井の活躍は、いつも私の背中を叩いてくれた。もちろん、メジャーリーグの試合結果を見るのが最大の楽しみになっていた。

 その大好きだった松井がバットを置いた。あの左手首骨折がすべてだった。あれがなければ両膝を手術することもなかったかもしれない。果敢なスライディングキャッチの後も、彼はさして痛がる素振りを見せなかった。左打ちのホームランバッターが左手首を骨折したのだから、後がどうかは想像以上のものがあったことと想う。それを差し引いても彼の記録は偉大さを感じさせる。
 引退試合で松井はどんな言葉を発するのだろうか。ヤンキースは永遠に不滅です!とでも言ったら、ヤンキースタジアムは拍手喝采となることだろう。

 
 これからの松井に・・・師が無念な解雇を告げられた1次監督終了後に充電期間を設けたように、彼にもゆっくり休み、じっくり充電してもらいたい。かまびすかしい周囲の雑音に神経を使うことなく、である。
 ともあれ、ありがとう松井だけは言っておかなくては!