東日本大震災から15年が経つ。毎年のこととして時の流れの早さを感じる日である。この震災が発生した時、どこで何をしていたかしばしの間の話題となる。被災の規模は雲泥の違いがあったが、関東地区でもその被害たるや強烈なものがあった。屋根のグシが落ちた家は数えきれないほど。信号から光が消えた交叉点で手旗信号の導きで恐る恐る車を走らせた記憶がよみがえる。
3月11日、その1ヵ月ほど前に突如としてふりかかった重い依頼を引き受けたことで、選挙対策の相談である家にいた時だった。思わずテーブルの下に潜り込んだ。大きな揺れがかなり長く感じられる時間続いた。それから、ニュースで地震の実態を確認すべくテレビを・・・ものすごいことになっていた。建ったばかりの家を津波はドミノ倒しのように倒壊していく。テレビからは押し寄せる波音までは聞こえない。静かにゆっくりと、しかし激しく津波は車はおろかありとあらゆる物体を飲み込んでいく。この世の地獄を見ているようで鳥肌が立ったものだ。
数日後、統一地方選挙では選挙カーのマイク音量をかなり低くすることが求められ、それは候補者間で暗黙の了解となった。しかし、実際は人それぞれだった。
天災人災かかわらず災害で目に焼き付いて離れない光景がいくつかある。
1995.1.17 阪神淡路大震災の高速道路の倒壊。そして断裂面に引っかかるように停まった状態のバス。更には長田区を中心とした火災
1995.3.20 地下鉄サリン事件で都心の道路で多くの人が倒れ、介護を受けている姿。そして上九一色村オウム真理教本体に立ち入る光景
2001.3.11 ニューヨーク世界貿易センタービルにボーイング旅客機が突っ込み、しばらくしてビルが崩れるように跡形も無くなっていった2段階の光景。これは人災としては歴史上、またその方法から史上稀にみる人災だと感じた。
そして・・・
2011.3.11 今日が15年目にあたる東日本大震災
地震の約1ヵ月後、当選して間もない県議会党県議団で視察見舞いに出向いた。バスの到着は深夜になり、夕食は宿でおにぎりがあてがわれ、風呂は入らずだった。宿も被災していたのだ。南三陸町のプレハブ臨時庁舎で佐藤町長に面会し、見舞いの時を持たせていただいた。疲れ切った表情が印象的だった。佐藤町長は昨2025年11月に任期満了で退任されたが、合併前を含め5期20年にわたり町長を勤められた。いや、努められた方だ。当時、復興には少なくとも20年かかると言われていたが、実際15年経過して復旧は成し遂げた感はあるが、復興までには至っていないという見方もある。しかし、3か月後と1年後の2度、ボランティア活動で再訪門した際にお会いしたが、復旧事業はかなり進んでいたように感じた。防災庁舎や女川町の横倒れしたビルなどは手が付けられていなかったが、それらに先んじてやらなければならないことがどの街でも山積みだったのだ。
ボランティア活動では、瓦礫の撤去、沈んだ船着き場の修理のための砂利の運搬、さらには海水に浸かり錆びてしまった漁業資材置き場用の貨車の塗装などを指示により担当した。それほど長い日数では無かったが海なし県の埼玉人にとって考えも及ばない作業にしばらく筋肉痛が残ったものだ。
3月11日の前日は、東京大空襲の惨劇が起こった日。昭和20年の8月6日、9日は言うに及ばず、予告なしで発生する天災と異なり、今各地で起っている戦争も人間の欲望と身勝手さが根源にあると思うと、それで命を落とした人が哀れでならない。
鎮魂の祈り