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No.2361 偉業4,000本

2013.08.22

 ここ数日、ゲリラほどまでに至らない雨に毎晩洗われています。花木も一息ついてやれやれといったところで、さぞや水分不足のストレスから解放されていることだろうと思います。もちろん、私たちにとってもそれは同じ。若干、数日前の燃える暑さが少々控えめ加減に感じはしませんか。それでもクーラーカットはとてもできない!まだまだ猛暑。もう少しの辛抱か。

 今日は、朝8時から始まったメジャーリーグの衛星ライブ中継に見入った方が多いと思います。まず私の感想ですが、イチローは遠い日本の見えぬ糸でつながっている多くのファンへの思いやりにあふれていましたね。なにしろイチローらしいクリーンヒットをレフト前に決めてくれたのが初回でしたからね。もしも4打席や5打席目まで引っ張られると、その間約3時間以上、トイレ以外はどこにも行けなくなるわけですから、さすがイチローと妙な感心をした次第。
 ベンチを飛び出したチームメートに祝福されるイチローの顔は、ほんのり上気した様子の、あまり見ることのない顔つきになってました。
 過去にこの偉業が達成されたのは3度しかないわけですが、最初のタイカッブは1920年代の出来事ですからアメリカ人でさえ、たとえテレビにしてもその場面に接した人は少ないはず・・・だいいちテレビがあったかどうか?
 次のピートローズは1986年で衛星中継のない時代。ということは日本人でこれに遭遇した人はごくまれ!
  

 そして今回のイチロー。たまたま時間的に都合のよい朝8時からということで見入っていた人も多かったと思います。その人たちは、皆一様に衛星中継の意義をいつも以上に実感したことでしょう。
 なぜなら、この数字を追う選手は3,300本代にまで届いている同僚デレク・ジーターですが、イチローと同じ歳ですから、おそらく達成ラインまで選手でいることは難しいでしょう。記録的にはまだまだですが、ツインズのマウアーが大量安打製造機の可能性を持つ選手かなと思いますが、なにせ捕手というポジションにクエスチョン!といったところです。
 つまり、確率といった観点で考えると、奇跡的な確率で偉業達成を目にしたということが言えませんか? そう考えるといっそう感慨深い4,000本安打なのです。

 試合後の記者インタビューで、素直に喜びの言葉が出てこないイチローもイチローらしいといったところ。難しい哲学的な言い回しになってしまうのですが、それが驕れるタイプの気取った発言に聞こえないところがいいですね。でも、野球少年たちにわかりやすい言葉が聞きたかったところでした。
 「イチローは間違いなく殿堂入りするでしょう」と祝福したローズの言葉が偉業の重味を感じさせます。

No.2315 礼儀、挨拶は一流への必須要件

2013.04.08

ファイル 254-3.jpg 一昨日、全国交通安全運動週間の始まりにあたり、幸手警察署では1日所長に浅井えり子さんをお迎えした。ご存知の通り、ソウル五輪のマラソン選手で、名古屋国際女子マラソンなどで優勝した日本の女子マラソンの草分け的な存在の方です。
 所管内の栗橋駅東口で行われたセレモニーに招待されたことから、浅井さんと昼食を共にしながらしばし歓談することとなったが、なるほどと感じるお話を聴き、その場の全員が感心しきりとなった次第。

 要するに難しい話ではないのだが、浅井さんのこれまでの経験において、およそ一流という肩書きがついたアスリートは、誰もが礼儀正しく、挨拶をしっかりする人ばかりだというのである。思春期から青年期に入る年頃で、世間から注目されることについては、才能を見込まれ、また発揮できているという点で価値あることだが、それによって人の基本を忘れる選手が少なくないらしい。
 こうしたタイプは、自らの才能をさらに高めるためには努力があってこそという理解ができないパターンか、もしくは形だけの努力で済ませて納得するようになってしまうパターンのどちらかなのだろう。
 聴き手を説得する力というのは、その道を登った人が言うと深いものがある。まさに、当たり前と決め付けてしまえばそれまでではあるが、今日、この話を中学校と高校の入学式で早速引用させていただいた。

No.2314 45年ぶりの優勝旗

2013.04.06

 前号で長嶋さんへの思いを書いたばかりで、しばらくは更新したくない気持でいたところ、なんと浦和学院が選抜野球で優勝をもたらしてくれた。すぐに書込もうとも思ったのだが、やはり長嶋さんの余韻をもう少し残したかった。

 それにしても強かった。済美高校の安楽くんも素晴らしい選手だが、投打がかみ合った浦和に軍配は上がった。全員野球とはまさに今回の浦和学院のような戦い方を言うのではないだろうか。

 ここで、我が青春の思い出に少々お付き合いください。
 45年前・・・春夏通じて甲子園に初出場した大宮工業高校が、戦いの結果として小さな大投手と呼ばれることになった吉沢くんを擁して、あれよあれよの初優勝で大紫紺旗を埼玉に持ち帰ったのは昭和43年だった。記憶に間違いなければ、決勝戦は尾道商との一戦で3対2というきわどい接戦だった。 
 実は、その前年の夏の大会では、宮工に対して大高という略称で良きライバルだった大宮高校が出場していた。当時は大高が夏のベスト4になったりで甲子園常連校として県内きっての強豪高として全国に名が知れていた。
 その42年夏の県大会の決勝戦は両校がぶつかり、確か1対0だったと記憶している。その試合は受験生だった私も県営大宮球場で見ていた。その時の大宮高校のメンバーは今思えば強烈だった。甲子園でも優勝候補の一角に上げられたくらいだった。同年秋の第4回ドラフト会議では東映に1位指名された吉田誠をはじめ3人が指名されたのだ。また、早稲田で6大学首位打者になった金子・・・それから現在西武ライオンズの球団本部長として活躍している鈴木葉留彦(当時治彦)という西武では代打の切り札として有名だった選手で、1年生でファーストのレギュラーだったからプロに迎えられる人はやはり違っていた。ついでになるが、始まったばかりのドラフト会議は第1回の堀内から、2回が江夏、3回が平松、西本、5回があの田渕、山本浩二、冨田の法政3羽ガラス、6回が三沢高の太田と、今でも記憶に鮮明な選手たちが第1位指名をうけていた。なぜか当時の“野球へのときめき”を感じる時代だった。

 ちなみに、当時の県内強豪校として甲子園を争っていたのが、この2校と上尾、熊商などであり、さらには深商、所商といったところだった。公立と私立の立場は正反対だった・・・というか、私立高校がまだ少なかった時代でもあった。大宮高校と大宮工業は、その後もOB戦を定期的にやっていると聞いているが、皆それなりの年齢になっているので最近のことまではわからない。

 残念ながら、受験生の身ということで甲子園までは応援に行けなかったが、初戦はテレビにかじりついていた。4番のホームランなどで3対1とリード、報徳学園9回裏の攻撃で2アウトから3点取られてサヨナラ負け。最後のサヨナラはたぶん長い甲子園の歴史でも他に例がないと思うが、3塁ランナーのホームスティールだった。同点になった段階で浮き足立ってしまったのだろう。このあたりは高校野球のよく言われる怖さというものだった。
 この大会、隣県の習志野高校が初出場で優勝した。この時の優勝投手だった石井投手は早稲田に進学したが大成はしなかった。しかし、その後母校の監督に就任して数年後、再び習志野高校を優勝に導いた。その時の投手が、今ヤクルトの小川監督その人だ。野球の歴史は面白い。人生もいろいろだ。

 母校大宮高校の話に戻ると、この年は埼玉国体が開催された年だったが、甲子園大会の数ヶ月後に開催された国体高校野球で我が母校は優勝している。大分商、今治西などを破ってのことだったと思うが、さほどに当時の記憶はけっこう残っているのだが、甲子園初戦で負けた報徳と、優勝校の習志野と一戦交えたかどうかの記憶がまったくない。
 そして、これ以降母校の甲子園出場は果たされていない。
 しかし、今年は所を変えて「科学の甲子園」に出場したらしい。それもまた素晴らしきこと。

 
 ともあれ、浦和学院優勝おめでとう! ありがとう! 県庁に報告にくるのはいつだろうか。大紫紺旗にお目にかかりたい。
 長々とお付き合いくださりありがとうございました。
 

No.2313 「人に見せない汗をかけ」by長嶋茂雄

2013.04.02

 暖かい日も確かにあるにはあるのだが、まだ暖房器具のお世話になる日が続きますね。来週には桜も散るというのに・・・。

 さて、今日はまさにホットなニュースが飛び込んできました。私が長年訴えてきたことでもあり、以前の古いブログでも書いたことがある長嶋さん国民栄誉賞受賞!のニュースです。
年度替わりの初日を待って安倍総理が打ち出した方針。これほど多くの国民が納得する受賞対象者は今後なかなか出ないと思われる大ヒット。最初はエイプリルフールを思い描きましたが、総理はそれほど野暮な人ではありませんでした。

 昭和28年だったでしょうか・・・県営大宮公園野球場でセンターバックスクリーンに大ホームランをかっ飛ばした千葉佐倉高校の長嶋茂雄三塁手。立教大学に入って以降の長嶋フィーバーは焦土と化した国家復興にどれほど活力を与えてくれたことか。
 戦後日本の高度経済成長は、娯楽も少なく、働くことが生きがいでもあった勤労者たちに、野球を通して夢を与えてくれた長嶋さんの活躍があったればこそだと言っても過言ではないでしょう。
 家に帰って、ビールや2級酒を飲みながら、大奮発して買ったばかりの角の丸い小ちゃな白黒テレビで野球を見る。野球のない金曜日の夜はプロレスで力道山の空手チョップに一喜一憂する。まだ、小学生だった私でさえ・・・いや、酒は別にしてもそんな感じでした。月光仮面やまぼろし探偵、七色仮面、少年ジェットなども私たち専用の娯楽番組でした。なつかしい!

 33年ジャイアンツ入団。私たちは、背番号3にあこがれ、バットでもグラブでも買ってもらった道具には3を書き込んだものです。「サード4番ナガシマ」のフレーズにワクワクもしました。力道山がテレビ普及に果たした役割は大きなものがありますが何しろ短命でしたし、人格的に問題の多かったヒーローでした。それに比べてミスターは笑える人間性もありの人で、ハイレベルなプロスポーツマンであるにもかかわらず親しみやすい人柄でもありました。

 語られることも多い後年の不幸が長嶋さんのイメージにそぐわないのがくやしいのですが、それでも今の状態であっても、ミスターが野球界だけでなく日本全体に元気をもたらしてくれる存在であることは間違いない!と私は声を高くします。他に比較対象できる人が見当たりません。
 松井さんも同時受賞とは、安倍総理も粋なはからいをしたものですが、私の希望はと言えば、まだ松井さんは先がある人だし、今回は長嶋さんの単独受賞に対して、大多数の国民で感謝の思いを込めて受賞を祝ってあげたかったと思うのですがね・・・。松井さんにももちろんそれだけの資格はあると思いますが、松井さんにしても師匠と同時ではこそばゆいのではないでしょうか。
 しかし、これでイチロー選手の引退後の受賞も約束されたようなものですね。

 
 おっちょこちょいの一面がまた不思議と私たちの心をなごませる長嶋さん、現役時代はそうした表とは別に、影で素振りを繰り返し、人に汗を見せることをしなかった長嶋さん、今はリハビリに汗を流す日々が続きますが、今まで以上に私たちに激を入れてください。いつまでもお元気で!

No.2275 松井選手引退に想う 

2012.12.29

 なんともはやである・・・やはり、年の瀬に選挙があったお陰でせわしない年末となっている。いまの私には「しわす」ではなく「せわす」に思えてならない人生で最もハードな師走だ。それでも家庭の年末行事にまったく不参加というわけにもいかず、苦しく辛いといった感覚も多少ついて回る。

 さて、少し大袈裟に書き始まった更新も、実は、未来の党のあまりにも予測が当たりすぎたあっけない幕切れを書くつもりだった。しかし、あえてこれを題材にするのも馬鹿らしくなった。9ヶ月もの長い間、故郷被災地を訪れることなく、選挙のことだけが優先する政治家が悠々当選してしまう。
 政治を一定期間で見直す意義を持つはずの選挙とは、いったいその意義を発信してくれているのだろうか? 滋賀県知事も軽さの上に不見識というのが私の評価だが、同情の目もある? ない? まっいいか、もう私自身の判断を信じよう!

 松井秀喜・・・5打席連続四球で敗戦となった甲子園の試合直後、マイクの前で憮然として言葉が出なかった松井少年。年を経てもどちらかというと寡黙さを感じさせる松井青年は、プロ意識を表現するために、マイクを向けられると無理無理発言していたように見えた。そしてあれから20年・・・やはりインタビューが苦手なのだろうか?・・・人生の区切りのインタビューでも、有名人は辛いなあと感じさせるものがあった。
 長島人間の私が、この引退という厳しい現実にあって、師と弟子が、共に一緒に素振りをしたことが最高の思い出と語る。真の4番バッターへの道を切り開いたこの楽屋裏の場面があったからこそ、世界の松井が生まれたのであって、そうでなければ平凡な4番打者だったかもしれない。いや、それに違いない。鳴り物入りが鳴りもせず響きもせずに淘汰されていった例がどれほどあっただろうか。

 実は、私が政治の道に入った年が2003年・・・松井ヤンキース移籍の年である。この年の幸手市議選は4月27日だったが、そのほぼ1ヶ月前の3月31日に、松井は初打席で初安打、初打点というデビューをはたした。まさに順風満帆な船出から、4月8日初ホームランが満塁本塁打、4月12日は初のサヨナラヒットと続き、7月17日にはサヨナラホームランを見せてくれた。

 その年の1月17日に友人の言葉から市議選への挑戦を決意し、その後の3ヶ月間、ほぼ誰もが初体験という素人集団による選挙戦の真っ最中に、松井は私の疲れを癒すだけでなく、発奮させてもくれたのだ。
 そして、その後の私にもけっこう厳しい現実が待ち受けていたのだが、松井の活躍は、いつも私の背中を叩いてくれた。もちろん、メジャーリーグの試合結果を見るのが最大の楽しみになっていた。

 その大好きだった松井がバットを置いた。あの左手首骨折がすべてだった。あれがなければ両膝を手術することもなかったかもしれない。果敢なスライディングキャッチの後も、彼はさして痛がる素振りを見せなかった。左打ちのホームランバッターが左手首を骨折したのだから、後がどうかは想像以上のものがあったことと想う。それを差し引いても彼の記録は偉大さを感じさせる。
 引退試合で松井はどんな言葉を発するのだろうか。ヤンキースは永遠に不滅です!とでも言ったら、ヤンキースタジアムは拍手喝采となることだろう。

 
 これからの松井に・・・師が無念な解雇を告げられた1次監督終了後に充電期間を設けたように、彼にもゆっくり休み、じっくり充電してもらいたい。かまびすかしい周囲の雑音に神経を使うことなく、である。
 ともあれ、ありがとう松井だけは言っておかなくては!

No.2215 なでしこ万歳!

2012.08.10

 ロンドン五輪、始めて目覚ましをかけて早めの就寝を試みたが、大きく育った鈴虫の音がひっきりなしで、なんとなく寝ざめの悪い朝方3時45分。女子サッカーの決勝戦がキックオフした。8分後には完璧に目が覚めた。

 結果は、金か銀かに区分けされたが、試合展開がこれほど際立って戦法の異なるチームの、それぞれの持てる力がふんだんに発揮された好試合はなかった。まさに「ウェンブリーの壮絶な日米決戦」だった。

 スピードに勝るアメリカの速攻か? パスワークに勝る日本のチーム力か?
 どちらも勝者にしたいと感じさせる熱戦は、男子と違って反則も少なく、かつて見たことのないハイレベルな試合だった。
 まずは両チームの選手には、8万人もの大観衆に埋まったウェンブリーでプレーしたことを喜ぶと同時に誇りに思ってもらいたい。地元イギリスのチームが出るわけではないビッグスタジアムにこれほどの観衆が訪れたということは、世界の女子サッカーが、人気も実力も本格的なものになったことを示した。そして、この夜の観衆は素晴らしい試合に酔ったことだろう。幸せな8万人だ。

 ペナルティーエリアでのアメリカ選手のハンドが各国新聞で話題になっているようだが、私もあのハンドがハンドと判定されていたら、2対2の同点でワールドカップに続いてPK戦だったといっときは思った。いや、試合展開そのものが変わっていたかもしれないとさえ。
 でも、考え直した。なでしこが他のチームには見られないあれだけのチームワークパスプレーを世界に披露してくれたということは、金に勝るものはないけれど、なぜか銀でも十分素晴らしく輝いていると感じられたからだ。もはや、タラレバなどにこだわることはない。
 「女子団体スポーツ史上崇高な決勝戦」こんな感想が本当のところだ。
 北京の女子ソフト日米決戦も素晴らしい白熱した内容だったが、上野投手が個人的にクローズアップされる試合だったことと、観衆の数の違いからか、それほどの熱狂ぶりとはならなかった。このあたりに今回のサッカーと異なる点があるのかもしれない。野球好きの私としては少々複雑な思いは残るが、サッカーは地球儀ならぬ地球技になりつつあると言えるのではないだろうか。
 なでしこ18名の栄光に万歳! そしてありがとう! 

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